『中庸』章句序からMIKする-その2「『中庸』を書き残した人の覚悟」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

問題意識の教材化(MIK)ブログ

今の「学び」を「〇〇のため」で終わらせずに、「〇〇とともに」にしていくために、問題意識を教材化して、日本の教育システムで閉ざされたものを開き続けます。


今日の一日一読は「中庸章句序」の続きで、

「蓋し小古(しょうこ)の聖神(せいしん)、天に継いで極を立てしより、道統の伝、自(よ)って来る有り」

でした。前回がなぜ中庸を書くのかということが説明されていましたが、その後にこの文章がくるところが、中庸を書いた人の決意を感じます。この著者は「道」が途絶えることを憂いていたわけですが、その道が時代を超えてどれほどの人たちが継いできたのかということを想うと、覚悟の度合いが違ってくると思います。

文中の道統に関しては、宇野先生が訳注で書いてくれています。
「道統の説は唐の韓退之(かんたいし)に始まる。韓退之の原道に「堯は是をもってこれを舜に伝え、舜は是をもってこれを禹に伝え、禹は是をもってこれを湯に伝え、湯は是をもってこれを文武周公に伝え、文武周公はこれを孔子に伝え、孔子はこれを孟軻(もうか)に伝う。軻の死するやその伝を得ず、荀と揚とは、択(えら)んで精(くわ)しからず語って詳かならず」とあり。けだし仏者のいわゆる伝燈の説に模倣したものと思わるるが、朱子に至って明らかに道統の語を用いたのである。」(14-15ページ)

中国古代の堯舜の時代から脈々と受け継がれ、孔子や孟子の代まで伝えられたものが途絶えてしまったということが何を意味するかは深く考えるべきだと思いますが、『中庸』の著者とされている孔子の孫である子思は、伝わらなくなりそうなものを何とか残そうとする選択をしました。

そのおかげで、今日においても、しかも国を超えたところで、私たちがその道を学ぶことができます。そのことへの感謝はしつつも、学べることが目的かと言えば、そうではなく、学んでどう生きるかということが重要なはずです。

国境を越えて、世代を超えて、「道」を生きたいと切に願って、日々を過ごす決意を新たにできました。