『二宮翁夜話』からMIKするーその260「“己に如かざる者を友とするなかれ”の尊徳的解釈」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

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今日の一日一読は「〔260〕人の長所を友とせよ」でした。今回は論語の「己に如かざる者を友とするなかれ」について、世間では意味を取り違えているということを尊徳が語っていました。

この言葉の一般的な解釈は、自分よりも劣っている人を友にしてはダメだということですが、何を劣る基準にするかで、かなり意味合いが変わってきます。その基準は能力や財力ではなく、志だと言われているようです。どれにせよ、自分よりも劣っていると判断した相手は友とすべきではないとなります。つまり、あらゆる人とは友になることはできないと言えます。

尊徳の考えはこうです。
「人々には、みんなそれぞれ長所があり、短所もどうしてもあるのだから、このことばは、その人の長所を友として、短所は友とするなという意味と心得るがよい。つまり、その人の欠点を捨てて、その人の長所を友とするのだ。」(332-333ページ)

何かしらの欠点を持たない人を見つけることが困難である以上、必ずと言っていいほど、誰かの目には劣っている部分が見えてしまいます。その意味では、あらゆる人と友になることはできなくなります。それに対して、尊徳のように考えていけば、長所を見つけられれば、誰とでも友になることができます。

ここで注意すべきなのは「友になる」というのは具体的にどこまでを指すのかということです。尊徳はそこに関しては語っていません。欠点を捨ててと言っても、実際にその欠点が見えなくできるわけではないので、付き合う中で無視するしかないと思われます。目をつぶることができる程度の短所であれば、問題ないと思いますが、タチの悪い短所があると付き合い方をよくよく考えないといけないと思います。尊徳が人付き合いに関して、実際のところどうだったのかという点が非常に気になるところです。