崎山地区
崎山地区は、福江島南東の半島部を主な地域とし、火ノ岳、中岳、鬼岳を境にして北は
旧福江町、西は旧本山村に隣接し、南東部一帯は海に面している。それに南東約5.5kmの海上に浮ぶ赤島と、その属島で無人の大板部島、小板部島、その他岩礁の立島、
モーツ瀬など併せて総面積は、13.5平方kmである。
箕岳(左)と臼岳(右)
箕岳(144m)は典型的な臼状を呈し、底径約500m、側面はゆるやかな傾斜で頂上は北に傾いていて円形の完全な火口を残し、その直径は火山錘底の三分の一ぐらいである。
臼岳(125m)は南側の海岸に絶壁を作り、その火山帯の一部は海食のため内部を
露呈している。
北西方向にわずかに傾斜した60mほどの台地をつくる。各溶岩流の厚さは20m以上あり、表面は岩塊状を呈す。暗灰色、緻密で節理の発達はなく、土木建築材として採石される。
地域内には山林、原野が少なく、二つの溶岩台地が耕地として利用され、その広さは村の総面積の六割強を占めている。河川はなく、下崎山の中央低地に崎山牟田と称する
沼があり、雨水が流入して白浜海岸に注いている。
畑作では、麦、粟、甘藷、豆類、野菜類の生産が豊かで「崎山長手にかか持てば、えんず(大豆)、と豆(エンドウ豆)はつかみどり、帰りは、ぼっだ(カボチャ)の横うだき(脇に抱える)、やせたうんば牛(やせた運搬用牛が)うせ殺す(疲れて死ぬ程土産があった)」と、
俗謡にうたわれたほどであったが水田と樹木に乏しく、岐宿の山内方面へ雑穀を持って
行き、米、稲ワラ、薪と交換していた。福江と岐宿の境近くの大阪峠が、崎山で日暮れ峠と
呼ばれたのは当時のことである。
長手地区
往古、福江の中心が大津方面であったころ、周辺のここ長手にも人が住んでいたといわれている。天養元年(1144)大津にある薬師寺を神宮寺と改めたが、この薬師寺は長手にあった薬師堂を改称して大津に移したと記録にあることからもそのことが実証される
“よ~い、崎山(さっきやまん)人よ、教えっくれんね。分からない言葉があっとよ”
“何かね、オッが知っちょっこんなら云うけん”
“「崎山長手に~で、えんず・と豆、ぼっだの~、やせたうんば~うせ殺す」ち、
書いちょっばってん意味が分からんとよ”
“(爆笑)そっんこっか、ぼっだは「カボチャ」カボチャたい、「やせたうんば」は・・・
オッもハッキリとは分からんけん聞いてみってん、チョット待っちってや”(/ω\)
狭い福江島の中でも地区により、微妙に言葉が違う。五島弁は難っかしか~!
byー昭和のおじさん
立島漁航
(五島ふるさと讃歌 2001年1月 著作:廣瀬健司)より
朝の崎山沖・立島付近。日の出の位置の関係で、冬は特に美しい。
「水平線から朝日が昇り、辺りが明るく照らされ始め、一日が始まる」、瞬間だ。