否定って心の肥料だった!? | プルートの世界

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否定っていうのがよく分からなくなる


否定ってわたしのなかでひとつのテーマでもあって


否定っていいもの?わるいもの?

って混乱するときがある


わたしは長年否定を恐れていた

否定されたくなかったり、否定的に思われるのがこわかった


だから誰かや何かを否定することも

よくないことのように思って

そういうのは出さずにきた


でも出さないだけで

内側には確実にあるものだった


世の中に対する否定

自分に対する否定

誰かの価値観や考え方に対する否定


あるけど、それはよくないものとして封印した

とくに相手に対するもの


わたしは幼少から自己否定的で自分がきらいだった

でも今になって振り返ると

自己否定こそが自分を理想へ向かわせるエネルギーだった


こんな自分いやだ!こんな自分のままでいたくない!

それこそが原動力と

そこに光を見た

もっとこんな自分がいい!もっと人とあたたかくいれる自分を理想に、そんな世界にきっといつかは行きたいと光輝く理想を夢見た


それがもしその頃から楽しく満足していたら

きっとそんな光を追うことはなかった

苦しいからこそ、暗闇だからこそ、光を求めた

光を見れた


全ては否定から始まっていたんじゃないかとさえ、思った


だとしたら、否定は必要であって、いいもの?


でも、わたし自身は今も

否定されるのはなんとなくこわい感じがする

否定的に思われてるかなぁとかきにしたりする

否定的に思われたらいやだなぁ、苦しいなぁって感覚もする


否定ってなんなんだろう

パワーが強いことは、なんか感じる

否定するのはよくないって、ほんとなのだろうか

これだけパワーがあるのに、それを封印してしまうというのは

ホントに正しいのだろうか


否定にそれだけパワーがあるからこそ

日本や教育では従順さを求められてるんじゃないだろうか


従順さってなんだ?

従うこと、否定しないこと?

自分の意見を消すこと、

自分の意見を言わないことだ!

そうだ、それだ‼


自分の意見を言う=否定みたいな感覚

これなんなんだろう、


自分の意見が、相手の求めることや意見と異なるとき

それはどうしたって反するものになる

それを伝えることは、どうしたって否定のような要素になってくるではないか?

てもそれって、否定じゃない

自分の意見を言っている、伝えてるに過ぎない


そこが混同しちゃってるよね

自分の意見や考えを言うってのは難しいですね

どうしたって反する考えや価値観の人はいるわけで

そういう人が見たら否定的だと思われて、否定的にとらえられちゃうんだろうなぁって感じて、、


でも誰も傷つかないように

誰に対しても無難なように、なんて考えて文章つくってたら

全然エネルギー乗らないんじゃないかとも思うし


わたしが坂爪さんの投稿にすごく救われて心に響いたのは

その飾らないそのままの本心での言葉だったから

隠さない真実さだったから


もし坂爪さんが嫌われないように、

誰かを傷つけないように、とか配慮して投稿していたら

絶対にあんなに心救われることはなかった


でも、坂爪さんの投稿にぐさりとくるときもある

でもそれって坂爪さんの投稿に反応したのはわたしのほうで、

逆にそのわたしのぐさりときた投稿に、誰か救われてる人もいるかもしれない、と思うと

坂爪さんの問題ではない、わたしの問題だ

わたしの心のなにかが、反応したということ


そうだよね、無難な投稿からは、このぐさりは生まれない

このぐさり、ってある意味とっても大事

教えてくれてる、ここに傷があるよ、って

ほら、痛いでしょ?って


人は痛いからこそ、痛みを感じるからこそ、その痛みを感じたくなくて、その痛みを感じさせるものに対して否定的に思ったり、拒絶したくなったり、やめさせたくなったり、悪だとみなしたりする


でも痛みを感じさせるものがもし無くなったとしたら

なんにも気付けない

痛いという反応はしなくてすむけれど

あるものを無いことにして過ごすことができる人生は

そんなにいいものだろうか?


痛みの無い世界

楽しい、幸せ、無難

そればかりの世界って豊かだと思えるだろうか


痛みから開放されるから、

は〜痛みが無いってさいこう‼

なんて自由なんだ!!

となるけど、

その痛みを知らない段階では、開放も存在できないし


だから痛みってのもギフトなのかぁと思った、、‼

なにか誰かの言葉や、文章に

ぐさりと反応することがあったら、それは

そこに傷があるよ、と教えてくれている


なんでいやだと思うのか

なにが不快だと感じるのか

どんな感覚になるから痛いのか


わたしは坂爪さんの投稿で

自分のことを深堀りする人は自分ばかりで好きじゃない、みたいな言葉にぐさりときた

そうか、わたしは自分のことを深堀りしているし、自分ばかりになっているかも、そんなわたしはだめなのかも、みたいに思った

ががーんってなった


わたしがやってることは間違ってるかもって


でも今書いてて思ったけど

こうやって人のひとつの価値観や感覚で自分のやっていることを自ら全否定してしまうのも違うなぁというか

これはあくまでも坂爪さんの感覚と考え方であって、それが正しいわけでもないのに、それを採用して、自分の生き方在り方を否定してしまう、曲げてしまうのは違うんじゃないかと

坂爪さんの考え方もあるし、そういう捉え方の人もいるけど、自分はどうしたいのか

それでもわたしは深堀りするのが楽しいし、それは本当に素晴らしいことだと思う、と誇りに思えばいい

どんなに深堀りしてる人は自分よがりだと言われても、それが好きなら、好きを貫けばいい

ブレるってそういうことなんだな、って思った

相手や誰か周囲の価値観や感覚や考え方、意見に自分の存在がゆがむような

自分の生き方ってこれでいいんだろうか、と不安になってみたり、

否定的になってみたり、

ゆさぶられる


でも、これっていいことだなってやっぱり

そう思いました!

ゆさぶりって必要だ!!

だってゆさぶりに耐えて、立ち止まって考える度に

きっとつよくなる

芯が太くなる

自分の軸をしっかりさせることができるかもしれない


それでいいのだと思った

存分にゆさぶられたらいい

揺れる度に、どう感じてるのか

痛みと向き合って

たとえ痛くても、貫きたいのか

それとももっとこうしなきゃな、と自分を変える必要があるのか

立ち止まってみたらいい


深堀りはするけど、自分ばかりにならないようにすればいいだけだとも思うし

深堀りを楽しみながら、相手にも興味を持って

自分よがりにならないようにするとか

生き方がその都度、更新される

その更新こそが、芯を太く、軸をしっかりさせるんだと思った

樹の年輪みたいに

ひと輪ずつ太くしっかりとした強固な自分になる

それと同時に丈夫でしなやかな幹であり芯になる


つよくしなやかな芯でありたいな


それには痛みを拒絶して排除しようとするよりも

痛みがあるたびに年輪を増やす生き方、在り方でありたいな


痛みは肥料だ

太くて丈夫な幹をつくる肥やしだ


ということは、否定もやっぱり

わるものなんかじゃない


自分が否定されることを恐れていたから

誰かに否定的にとらえられることも恐れていた

それはだって、自分がされたらいやだもの、という世界観だったのだと思う


でもこれを知ったいま

痛みは糧だと気付いたいま

それなら堂々と否定されようじゃないか

堂々と否定的にとらえてもらおうじゃないか


そんな思いにさえなりました

でもいざ起きたらただただ傷つくかもしれない

こわいかもしれない

凹むかもしれない


でもそれこそ自分の芯をつよくしてる最中なんだと分かったから

もういいじゃないかと思う


全てはあるがままで

感じるままで

きっと全てが必要なんだ


欠けてはいないんだ


自分も深くみて

相手も深くみて


それを心がけていればいいじゃないか

自分も、相手も

どちらの心も大切でおなじ価値ある存在で、と

そんなふうに忘れず頭においておきたい


自己否定的な自分はつい、相手のほうが大きく感じたり、自分を小さく犠牲的になったり、あるけど

自分に同じくらい相手のことも思う

相手と同じように同等の価値ある存在として、自分のことも見る

自分と同じ価値として、相手もみる


そんなふうにありたいな