こんにちは。

 

縁ある人とは、もう会う事はないかもしれない…今、それぞれの人生のやるべき課題に向き合ってるんだと思います。ツイッターでは呟いてるけれど、見てるかどうか…でも応援してます、私。

 

他人軸の時は、どちらかというと、選択肢も選べるものではなく、選ばないといけないもので「~しなければ」とか「~でないといけない」のように、ある意味、選択肢が決められてて、それに見合う自分にならなければいけなかったけれど、今は、それでも、揺れるけれど、自分で答えを出して、他の人が好むものでも、ノーを言ったり、相手に悪くても、断るようになりました。

 

人と関わって、ペースを乱されるのが嫌、というか…

今日も友達のことでモヤモヤして、福祉センターに電話したり、主人と話したりしたけれど、ルーティンのピアノを弾いたら、気持ちが落ち着きました。

 

昨日はピアノのレッスン行ってきて…私、ホントにクラシックが好きになりました。ピアノの先生、押し付けてこなくて「好きな曲弾いて良いのよ」と言ってくださいます。そういってくれるからこそ、余計、クラシックに惹かれるのかな。いつか、モーツァルトのソナタが弾きたい。

 

昔、弾いてたけれど、その時の学び直しかな。

 

色々、思うところあるけれど、私はレッスンで教わったことを家で咀嚼して、学んで、練習するのが好きだな、と感じます。YouTubeに動画上げたり、ピティナを受けたり…それはそれで素敵なことだけれど、私は家で練習するのが好きだな、なんて。

 

縁ある人と出会うと、女性は本来の自分になる、というけれど、私は、ホントはクラシックが好きだったんだ、ということや、先生から教わったことを自分で練習して体得していくことが好きなんだな、とか、色んな気づきがあります。

 

ただ、そういう自分と向き合ったり、知ったりするのが嫌で、見ないようにしてただけなんだって。そういうことから逃げないでいると、新たな自分を知れたりするものだなって。

 

ホントに向かなくて、興味がないからやらないことと、嫌だからやらないことなのか、好きだけれど、そこに向き合って、色んな自分を知ることから距離を置いてるだけで、ホントは嫌じゃなかった、興味がない訳じゃなかった、ということとは違いますよね。

 

主人とのことも、今まで、お互い、やるべきことがあっても、どこか面倒がって、向き合わないことがあって、それを見てみない振りしてたけれど、今は「一緒にやろう」と声かけて、助け合って、取り組むようになりました。やるべきことだけれど、やりたくないことに対して、立ち向かう勇気を持って、向き合ってるなって。面倒なことを、二人でならめんどくさがらずに、取り組める、というか。忍耐力みたいのが出てきたかな。

 

主人との関わりにぐっと踏み込んで、コミットメントする感じかな。

主人と力を合せれば、何でもこなしていけるような力強さもあります。

 

今まで、主人と生活は共にしてたけれど、向き合ってなかったんだと思います。夫婦でいても、それぞれ違う景色を見ていたのかもしれない。お互い、相手に問題を感じていたりしても、知らず存ぜぬで、見逃していたのを、相手のことも、我が事として捉えるようになったんだと思います。

 

ちょっと逃げ癖が減ったのかもしれないし、逃げないで向き合っても、むしろ良い気づきや新たな自分に出会えたり、相手との結び付きが強まったり…

 

縁ある人と出会う女性は、ある時から縁ある人に向けてたエネルギーを自分に向けるようになるって。そして、縁ある人で消耗して、ある程度のことには、腹を括れるようになるんだと思います。

 

私は、子供はいないけれど、うちの親は、子供の問題とは向き合わない親でした。それにいつも寂しさを感じていて…でも、きっとそれも親が変われば子も変わるみたいに、私と主人の関わりも、どちらかが変わって、良い循環が起きてるのかもしれないな、と感じました。

 

縁ある人は、架空のキラキラした世界を見せてくれてたけれど、今は、そういう世界は架空であることさえ、気づいてしまって、地道なのが一番であることにも気づいて…そこから少しずつ積み上げていってるような感じかな。