どうも。
皆様如何お過ごしでしょうか。
私は、人の命を知らせる為に、私の体を代用してある方の家族に伝えるという経験をしました。
最初は、手足が異常に冷たく暖かい部屋にいるはずなのに、血の気が引くような寒さ。
周りの人は私を見て『顔色が青い』と言います。
数分後、ふとなんとなく自分の気持ちがない無の状況になり、
その人のそばへ行き手を触り、体に凭れていてしばらく動けませんでした。
その様子を周りはみて『何イチャついているの?』とからかわれ、私は男口調で『わかったよ。もう』と
その場を離れました。
その30分後くらいに訃報が入りました。
『死んだかもしれないって。』
知り合いは駆けつけるために急いで病院へ行きました。
知り合いが外出したとたん、私の手足の体温が上がり通常な温度になりました。
後日連絡を待つとやはり天に召されたとの事でした。
最後のお別れとして私の体を使い、その人に伝えたのだと確信しました。
知り合いというのは、夫婦の間柄で、そう伴侶が亡くなったという事なのです。
正直言うと、複雑な気持ちでした。
今まで以上に身体の疲れ、消耗が酷くご飯もとおらず、エネルギーを使いすぎた感覚でした。
霊感が短期間でみるみる強くなるのがわかるのだけど、
今起こっているのはどういう事なのか理解しきれずに前に進み、後解釈で『そうだったんだ』と思うことが
多くなってきました。
一番大きな変化、それは
悲しい気持ちもある反面、どこか冷静で成仏することの祈りに既に専念している私もいるのです。
人が亡くなれば、多少とも人を悼み偲ぶ気持ちになり、時には涙が出る事も少ないと思うのですが、
違うんです。別な解釈をしているので、『泣く』事に結びつかないのです。
葬式で泣いた事がないのです。肉親の時もそうでした。
泣いている周りの姿を見て、遺族よりも周囲の姿をみて、『?』になるのです。
私が単に性格が冷たいのでしょうか?
あるべき姿を送るものとして、生きている人間がやらないと誰がやるんだ?という気持ちになりますし。
命の火が消えたとしても、悔やんでも悔やめず、
色んな事を頭上によぎりますが、結局、
偲ぶのなら、祈る。
祈るなら、成仏すること、出会えた事に感謝をすることを優先します。
後残された人間は、その個人の考え方次第で幸せになれます。
過去、現在、そして未来の幸せの為ならとそう、既に次のステージへ進んでいるんです。
命のともし火が消えたからといって『不幸』をひとつ背負う事になるという事ではないのです。
生きている以上、明日はきます。
そして、明日が毎日来ることで過ごしてきた過去の時間が濃縮されます。
やがて、月日が経ち、良い思い出が完成するのです。
故人に依存することなく、生きている今を感謝し、自由に生きる事が人間だと思います。
家族間でもお互いを敬い、干渉せず、幸せになる人生を互いに願う心に
悲しみにくれる日々のあの方に早く気づき待っている未来を進んでいける事を
見守ろうと思います。
体験した私も『見守る』事もひとつの務めなのかもしれませんね。