羽生結弦が「24時間テレビ」で北京五輪のショートプログラムを演じ切った意味
「氷に嫌われちゃったなって…」あの“心の傷”を乗り越えて
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滑り終えた後、真上に掲げた右拳のガッツポーズを解き放つように振り下ろした。
8月27日、羽生結弦は『24時間テレビ45』(日本テレビ系)の特別企画に出演。2018年の西日本豪雨で被災し、現在も仮設住宅で暮らす高校生を招待しての「スペシャルアイスショー」を、自身の拠点であるアイスリンク仙台で行った。そこで披露したのは2021-2022シーズンのショートプログラム『序奏とロンド・カプリチオーソ』だった。このプログラムを数多くあるプログラムの中から選んだことには、格別の重さがあった。
暗い中、スポットライトがリンク中央を照らし、プログラムはスタートする。
3つあるジャンプの中で最初のジャンプ、4回転サルコウを決めると、4回転と3回転トウループのコンビネーションジャンプ、最後のトリプルアクセルも成功。パーフェクトに滑り終えた。
「オリンピックでミスしてしまったある意味、心の傷っていうか。だからこそ自分はまたあらためて挑戦したいなと思いました」
プログラムを選んだ理由をそう明かした羽生。その言葉は、北京五輪の思いがけないアクシデントが、あれ以来、大きくのしかかっていたことを示していた。
初めて披露する場となったのは昨年12月の全日本選手権。
「自分の中で羽生結弦っぽい表現、羽生結弦でしかできない表現のあるショートプログラムがどんなものがあるのかなと思ってずっと探していました」
その末に選んだ一曲のピアノの一音一音を捉えきる演技を披露し、プログラムの世界を体現してみせた。
それでも羽生にとっては完成形でないことを試合のあとに示唆していた。
「ジャンプだけじゃなく全部見ていただけるプログラムに」
「具体的な物語が、何か曲に乗せる気持ちが強くあるプログラムになっているので、ジャンプだけじゃなくて、全部見ていただけるようなプログラムにしたいと思っています」
全日本選手権に続いて滑る場となったのが、北京五輪だった。4年に一度の大舞台こそ、羽生の目指す完成形の披露にふさわしかった。
だがそれは砕かれた。冒頭の4回転サルコウが1回転にとどまったのだ。
「穴に乗っかりました」
試合のあと、羽生はその理由をこう語った。
2019年の世界選手権の6分間練習のときに自身のエッジで作ったトレースに、演技の中ではまったことがあった。その経験をいかし、6分間練習で少しずらして跳び、試合では本来の軌道で入ろうとしたが、そこには他の選手が空けた穴があった。経験をいかして備えた上での、どうにもならない出来事だった。
「もうなんか……。いや、正直言って、なんか僕、悪いことしたかなって思っています。なんか悪いことしたからこうなってしまったのかなあって」
「すごくいい集中状態で、何一つほころびもない状態だったのでミスの原因を探すと整理がつかないですね。スケートの方でのミスはまったくなかったので。なんか、嫌われることしたかなって。すごい、氷に嫌われちゃったなって」
苦笑まじりの口調ではあっても、言葉は痛切に響いた。ミスではないからこそ、なおさらだった。そして、オリンピックへ向けての準備が万全であったことも伝わってきたし、なおさら、理想とする演技を披露する機会がアクシデントで失われた喪失感も思わせた。
その痛みの大きさが、「心の傷」という言葉にあった。だから、あらためて挑む重みもうかがえた。
「初めて自分の中での完成形として滑りきれたなって」
失敗できないという重圧はあっただろう。その中で羽生は、完璧に滑り切った。「耐えたジャンプもあったんですけど」と振り返る全日本選手権と異なり、3つのジャンプをきれいに決めた上で、全日本選手権で示唆した完成形と思える進化を証明した。競技時と同じ構成で臨んだこと、リンクに上がる前からの緊張感、演技後のしぐさや表情には、ここに懸ける思いがあふれていた。番組内で羽生は演技後、こうメッセージを伝えた。
「初めてちゃんとこのプログラムが、自分の中での完成形として滑り切れたなっていう風な思いがあります。僕もすごい怖くてなかなか踏み出せずにいたプログラムの一つですけど。でもやっと、これを乗り越えてまた前に進めるなって僕自身が思えたので。皆さんの中で、ほんの1秒でもいいので、前に進むきっかけになっていたらいいなと思います」
プロへの転向を表明したとき、「さらに成長していきたい」と羽生は語った。8月10日に実施した公開練習時の動作や滑りからは、その言葉通り、進化を志す姿勢にかわりがないことが見てとれた。番組内で披露した演技は、あらためてそれを証明する時間でもあった。
3つのジャンプを成功させたのはむろんのこと、音を捉えきる滑りも全日本選手権以上に研ぎ澄まされていた。また、その演技を実現できたのはプロに転向してもなお、練習の密度を一切下げることなく努力を続けている姿勢があったからこそだった。
競技会の白い照明とは異なり、暗く落とした照明のもとでの演技は、新たなスタートを切ったことを象徴しているようでもあった。
羽生が今回の挑戦を通じて伝えたのは、過去と向き合い、それを力にもかえて乗り越え、進んでいく意思だ。
そのことは見た人の背景を問わず、普遍性を帯びて、画面を通して伝わったはずだ。
(「オリンピックへの道」松原孝臣 = 文)

