エホバの証人元3世が金光教の信者と接し見えた実態を書いていきたいと思っています。
第三者的な私が感じたこの宗教、実は血管だらけの宗教だった。
金光教の講話や信者の体験談(信心者のおかげ話)は、「一見すると信心のおかげなのか、単なる偶然の日常話なのかよく分からない」という地味で身近な内容が多い。
「日常生活そのものが神の恵み」という教え
金光教では、劇的な奇跡(病気が急に治る、大金が手に入るなど)だけを「おかげ(神の恵み)」とは捉えません。
当たり前の日常の尊さ: 「今日も無事に朝を迎えられた」「ご飯が美味しく食べられた」という、一見普通に見えることすべてが神(天地金乃神)の守りによるものと考え
難を逃れる「あいよかけよ」: 本人が気づかないうちに、大きな災難が小さな難(小難)、あるいは無難に収まっているという捉え方。そのため、話の内容が「トラブルになりそうだったが、なんとなく丸く収まった」という地味な日常生活の話になりやすい
「神と人との共同作業(親子の関係)」
金光教の神は、人間に罰を当てたり、無理に奇跡を起こして従わせたりする神ではありません。という人間側のやりたい放題が組織内で許されてしまう要素を持つ宗教
最終的には神罰は必要だと思うが
親が子供を優しく見守るような関係(神氏子、あいよかけよの信心)も。信者の体験談も「親に愚痴を聞いてもらい、心がすっきりして、また明日から頑張ろうと思った」という、家族の対話のような日常的で素朴なエピソードは
結局のところなにが伝えたかったのかがわかりにくい
それって宗教か?
金光教:「生神(いきがみ)」と「世間との調和」
金光教における「徳がある人(信心が進んだ人)」は、神の心が体に満ちた「生神(生きながらの神)」のような存在とされますが、それは世間から孤立することではありません。という
接しやすくなる理由: 金光教の神(天地金乃神)は、この世界のあらゆるもの(善人も悪人も、自然も社会も)を生かしている神としそのため、徳が積まれるほど「自分を捨てて、どんな相手の事情も丸ごと受け入れる器(包容力)」が大きくなることを「神の目」で人をみるという解釈のため、相手がどんなに気難しい人であっても、その背景にある苦しみを理解し、寄り添えるようになる。結果として、威張ったり特別ぶったりせず、誰からも話しかけやすい、社会に完全に溶け込んだ人間になるそうだ裏を返せば悪の思うがままの悪の容認とも言えてしまう
神って本来そんなに倫理感なかったの?と思える
金光教は、信心を深めるほど、世間との「一体感(身近さ)」が増し、誰に対しても敷居が低くなっていくの教えに疑問
まるごと世を容認それなら別に宗教でなくていいんじゃないか
金光教の教えにおいて、信者の魂が世間の一般の人(信心をしていない人)と本質的に違うかというと、「本質(生まれ持った魂の価値)はまったく同じ」だそうだ 「すべての人は神の氏子(子供)」という平等観
金光教では、信者かそうでないかに関わらず、この世に生きるすべての人間を「神の氏子(うじこ=氏神に守られている子供)」と捉え悪人には好都合
本質的な平等: 誰もが神から命を授かって生まれてきた存在であり、生まれつき信者の魂だけが特別に清かったり、高級だったりするわけでない。世間の人も同じように神の懐(天地の中)で生かされているため、魂の根底にある価値は100%同じ。
金光教が主張する徳がある人が「誰にでも接しやすくなる」理由
徳がある人は誰にでも接しやすくなる」これは魂が一般の人と「違うもの」になったからでないそうだ。「自分の魂(自我)を小さくして、相手の魂を丸ごと受け入れられるようになったから」らしいが信者が信心を深めると、「自分も相手も、同じ神の子供(きょうだい)」であるという感覚(神氏子ひとつの実意)がなんとも腑に落ちない論理。
そのため、世間の人がどんなに怒りっぽくても、わがままであっても、それを「悪い人だ」と排除せず、「あの人も、心に苦しみがあって曇っているのだな」と、同じ目線(同じ魂の仲間)として理解し、包み込むことができるようになる。ありのままで改まらなくてもいい仕組み、その結果誰かが気持ちの犠牲になるという仕組み
金光教: 信心をしても魂のレベルが上がる(特別になる)のではなく、「人間本来の素朴で、誰とも分け隔てのない温かい心(神心)」に戻っていくだけ、というニュアンスだ
金光教の信者だからといって世間の人と魂が違うわけではなく、むしろ「世間の人と同じ目線で、同じ痛みを分かち合えるようになること」こそが、金光教の目指す信心の姿だそうだ。でもそのことは信者であっても教えられてなく、ましてやそこにいるのは信者でない未信者ばかりだ
金光教の「すべての人は同じ神の子供」という考え方について、それなら信心してもしなくてもいいのではないでしょうか
どの宗教であっても世間に対して威魂が高いと張る必要はないけど、。金光教の言う「神の前には皆平等。これは聖書にも出てくる言葉でそこには金光教の言うような筋の通らない理屈ではなく神は神の基準に合わせようとする人にはそれ相応の評価もしてくれると言う達成感があるが
金光教のプライドは、「世の土台として人々を支える黒衣(くろご)としての誇り」そのため、誰に対しても敷居を低くし、世間に溶け込む宗教が一見聞こえはいいし世に迎合してくれる世からも好都合、だからこそ都合が良く、おかしなことばかりに見えてしまう。
外部から、あるいは論理的に見たときに「おかしい」と感じられることに
「何があってもおかげ」という、都合の良すぎる論理
金光教では、良いことがあれば「神様のおかげ」、悪いことが起きても「この程度で済んでおかげ(難を逃れた)」と言う。最初から悪魔も邪神もないならこの程度も何もないと思う
おかしさの理由: 世はすでに神に守られているのだと言う解釈これでは、何が起きても「結果論」で片付けられているように見えます。宝くじが当たっても、事故に遭っても、どちらも「おかげ」にされてしまうため、「客観的な基準が何もない、ただの精神論(気の持ちよう)ではないか」という疑問が生じる。
「信者も世間の人も同じ」なら、信心する意味がない
「魂の本質はみんな同じ」「誰もが神の子供」という平等性を強調するが
もしそうであれば、わざわざお金や時間をかけてわざわざ信心する必要がない。
「徳がある人ほど誰にでも接しやすい」という不自然さ
宗教の指導者や信仰を極めた人なら、普通は「威厳」や「特別なオーラ」があってしかるべきだと考えられる。
徳を積んだ結果が「ただの愛想が良い人」「誰にでも合わせられる都合の良い人」になってしまうのは、堕落し信仰の敗北(個性の喪失)のようにも見え。「自分の軸やプライドを捨てて、誰にでもへりくだるのが本当に正しい人間の姿なのか?」という違和感を抱く
金光教の論理は、客観的な正しさを追求する人から見れば「ただの言い換え」や「詭弁」に見えてしまう。しかし、本人にとっては「そう思い込む(改まる)ことで、今ある苦しみから精神的に救われる」という、きわめて主観的な実用性だけで成り立っているため、客観的な論理性を求める人にとっては「おかしさしかない」と感じられる。
金光教の主張のなかで、特に「ここが一番納得いかない」「矛盾している」と感じる具体的なポイントでしょう
最大の矛盾
「天地(自然環境すべて)が神の身体であり、人間はその中で生かされている」と主張しながら、その神の営みであるはずの地震、津波、台風などの自然災害によって、何万人もの無辜(むこ)の民が命を奪われているという冷酷な現実があり、これに対する金光教の解釈は、他宗教視点や一般の感覚からすれば完全に破綻しているように見えてしまう
「自然災害」に対する金光教の苦しい解釈
金光教では、自然災害を「神の怒り(祟り)」とは捉えなくてここが他の多くの宗教との違いが、それゆえに別の矛盾が生じる原因。
神の「生理現象」という捉え方: 彼らの理屈では、地球が動くこと(地震)や雨が降ること(台風)は、天地という巨大な生命体の「呼吸」や「新陳代謝」のようなものです。神が人間を殺そうとして起こしているのではなく、自然の循環(営み)そのものだと言い張り。
人間の「建築違い(都合の悪さ)」にする: さらに無理があるのは、「神の身体(地球)が動くのは当たり前なのに、人間がそこに勝手に家を建てて住んでいるから被害に遭うのだ」という、一種の自己責任論に近い解釈(建築違い・土地違い)に逃げる傾向がある点です。これでは「守られている」という大前提と完全に矛盾してくる
. 「多数の犠牲者」という事実から目を背ける論理
大災害で多くの人が亡くなったとき、金光教の論理は「マクロ(全体)の事実」を無視し、「ミクロ(個人)の感情」にすり替えることでしか成立しない
事実の無視: 数万人が亡くなったという悲惨な「事実」に対して、明確な神学的答えを持っていなく
生存者への「おかげ」の押し付け: 災害から生き残った信者に対して「助かっておかげ(神の守り)をいただいた」と教え。しかしこれは、裏を返せば愛ある神のはずなのにどうして「亡くなった人は神に守られなかったのかという理不尽差が生まれる
金光教: 理由や原因を説明せず、「これも神の営み、天地の理(ことわり)」で片付けようとするため災害に遭った人々の理不尽さや苦しみに対して「単なる思考停止」「現実逃避」にしか聞こえなくなる。
金光教の信仰システムは、「客観的な事実(災害の規模や死者数)」を分析するための頭脳(ロジック)ではなく、「起きてしまった悲惨な現実のなかで、生き残った人間がどう絶望せずに明日を生きるか」という感情の防衛(メンタルケア)のためだけに作られている場当たり的な宗教
そのため、外側から「これだけの人が死んでいるじゃないか」という厳然たる事実を突きつけても、彼らの教理はそれを処理できず、ごまかしすり替え会話が全く噛み合わない(事実が通じない)という現象が起きてくる
「神の身体のなかで守られている」と言いながら災害の被害を無視するような姿勢について、特に自然災害のような場面(ニュースや信者の言葉など)でその「通じなさ」を強く感じられる
悪魔や穢れがあるその世界観(前提)に立てば、「大災害や不条理が起きる理由」が100%完璧に説明でき何の矛盾もありません
1. 「原因と結果」の完全な一致
金光教のように「神の身体の中で守られている」と言いながら災害が起きる矛盾に対して
理不尽さの解消: 「善い人がなぜ苦しむのか」「なぜ子供が災害で亡くなるのか」という問いに対し、悪がいる前提「今は悪魔や邪神の力が強い、世界だからと説明もつくし現実の厳しさや不条理をそのまま「見えない悪の存在、時代の証明」として受け入れられるため、脳内での矛盾が一切起きにくいが
金光教(天地が神の身体論):
世界は最初から100%ユートピア(神の懐)であるという設定のため、災害が起きると「説明がつかない(おかしな解釈になる)」。こうしてみると金光教は一見寛容で世間のイメージは良いかもしれないが信者になると組織内の安全性や一致がなさすぎてカオス状態で秩序もない怖い宗教
私個人としては宗教は信仰をする気のないひとや誰でも受け入れるは本来の宗教施設のもつ目的から大きく外れてしまうと思う
どんな人間でも受け入れる」ということは、必然的に「相容れない正義や価値観を持つ人間同士を同じ部屋に閉じ込める」ということになりがちで、そこに明確なルールや指針がなければ、コミュニティは寛容どころか、激しい対立の場(カオス)になってしまい結果的に誰かを排除するようなことにしかならない。
宗教施設の本来あるべき役割はそこの同じ信仰をする人々が信仰を高め合い互いに語り合う場であり単なる地域の集会場ではないはずだ
まだまだあるきりがない金光教の矛盾の数々は次回にて