内側でうごめく思いの世界の変化が加速的過ぎて、、、それとこの物質界のギャップに、最近ちょっと不満を覚えています(笑)

簡単に言うと、やりたいことが多すぎて、それに対して物質的な限界を感じているんですね!

今の私の最大の願いは、身体が最低3つは欲しいー!!って感じですね。。。ヽ(;´Д`)ノ

でも、毎日の充足感が凄くって、「今日も生き切った~~!!」 的な充実感がすごくって、本当に楽しくて仕方がありません♪


ヴィジョンがどんどん出てくるので、すっごく作品に取り掛かりたいのですが、今はちょっと自分の生きるスタンスを確立させる方にエネルギーを注いでいるので、この時空間から出られず、なかなか創作の空間に入って行けない状況です(笑)



絵を描くという作業は、日常を楽しむ時空間とはまったく別の空間です。

そこは、創造空間であり、存在していないものを生み出す空間なのです。

ですから、時間の流れが存在するこの時空間にあるものは、そこにはありません。


この私たちが生きていると感じている日常の世界はどこかに消え、意識は自分の永遠持続の深みのなかに入ってゆきます。。。


身体を持つこの時空間での私の身体は、先天的に下半身に支障があるのですが、創造の空間では、その身体が別の存在になるので(というか、そこから抜けているのかな・笑)、その身体的な支障のある身体は、その空間では存在していません。

簡単に言うと、まったく身体の感覚を感じていないのです。

ですので、普段行動する時に感じる痛みや歩行の限界が、その創造空間では全くなくなってしまいます。

私は絵を描くときは、立って全体像を見ながらでないと描けないので、何時間も立ち続けてキャンバスに向かっているのですが、その間はまったく身体の支障を感じません。

普段の生活上では、ゴミ出しのために数メートル歩くのも、キツイ時があるのにです!



創造空間とは、限界を軽く超えていく空間なのだと、常に実感します!

自分の無限の源泉に降り、そこに触れ、そこに流れ漂うものをこの現象界に引き上げてくるのですから、自我とはまったく無縁の世界です。

そこにあるもの・・・ただそれだけを見つめ、その世界をキャンバスに重ね、ここに浮上させてくる・・・

私という存在は、重なり合う違う次元に同時に存在するわけです。

ですから、私がその世界を表現するときには、日常とは全く異なる空間に存在しているわけです。

その条件は非常に厳しく、一人でなくてはならないし、外界のことを全部忘れ、自我の私から抜ける必要があります。

現象界的に言えば、まさに引きこもりの状態ですね(笑)

この世界は永遠持続なので、どこまでも行きそうになるのですが、有難いことに物質の身体があるため、この世界に帰って来ることができます。(心理的には複雑ですどね・笑)



最近、描くということを始める方々が多くなってきたと感じています。

創造することは実に素晴らしい行為ではあります・・・が、しかし、別次元をここに立ち上がらせ、魂が揺さぶられるような表現の作品に巡り合うことはほとんどありません。

そして、こういった最近の動向を見ていて、この風潮に、私は何か違和感を感じていました。

それは、悲しさに近い感覚を伴っています。


創造する世界が広まっていくのは、本当に嬉しく素晴らしいことです!

しかし、その反面、その風潮が蔓延すればするほど、本物感のようなものが薄れていき、薄っぺらいまるで今の手っ取り早い世界を象徴しているかのような・・・奥行きや深さという空間を感じないものが氾濫しているように思います。

この違和感をうまく表現できず、なにかジレンマのようなものを感じていたのですが、このことに答えを昨日見つけることができました。

やはりあの半田 広宣氏がこのことについて言及されていたのです!

それを見つけたので、その内容をここにシェアさせていただこうと思います。。。



アートではなく芸術を!! <NOOS ACADEMEIA 半田 広宣氏blogより>

カフェ・ネプ(ヌースアカデメイアの掲示板)に書いたコメントだったけど、もっと長く書きたくなったので、こっちに移動——

 日本で芸術という言葉がアートというカタカナ言葉に置き換えられ頻繁に用いられるようになったのはいつ頃からなのだろうか。
1960年代のカウンターカルチャー当たりからなのか、それとも70年代の高度成長期における企業のマーケット戦略からなのか、よくは分からない。
だが、個人的には芸術とアートには明確な区分をつける必要があると思っている。

 以前もブログに書いたが、芸術とは、知覚や情動といった生きる人間に固有の実存的体験、もしくは現実的経験を他者へと伝達、伝播させるための非言語的なコミュニケーションの手段と言える。
たとえ文学においてもそこで表現されているのは言語の奥に秘められた非言語的な何物かである。
芸術は言語として開示した世界から、再び言語を乗り越えて展開、転回していく人間の無意識の突端に息づく生あるものの顕現であり、それゆえに、芸術それ自身は自然からつねに超出し、自然なるものの始源への回帰を絶えず試みようとする存在の原型的営みである。

 O・ワイルドは「芸術が自然を模倣するのではなく、自然が芸術を模倣する」とまで言い切った。
要は芸術は人間世界に現れた神の欲動なのだ。だからこそ、芸術は宗教や哲学をある意味軽く超えているのだ。
いや、そうしたものでなければ所詮、芸術とは呼べない。

 果たして、現在、アートと呼ばれているものの現状はどうか?
はっきり言って「クソばかり」と言いたい気分はある。

 クズのような芸術作品を指してジャンク・アートという言葉があるが、実際のところ、アートという呼称自体がジャンクと化した芸術の別称なのだ。
その証拠に、小説にしろ、詩にしろ、絵画にしろ、音楽にしろ、現在メディアに送り出されているほとんどの作品がナルシシズムの中に耽溺した自我表現に終始してはいないか。 

自然回帰も結構。君の物語も結構。抽象も結構。退廃も結構。脱構築も結構。
しかし、それは君のごくごく表層で生起している近視眼的風景にすぎない。
存在はそう簡単にその本性を見せはしない。
もっと潜らなくてはだめだ。
自身の生の根っこを全部引き抜いて、その奥で蠢く地下水脈の巨大な流れに触れるのだ。

 芸術作品から発せられる光は黄金の輝きを持つものだ。
なぜなら黄金のみが唯一、闇を経験した光を持つものだからである。

自然の光は人為が及んでいないという意味において闇を知らない。
芸術が自然よりも偉大な理由は、それが一度闇を経験し、その闇の中から再び、光の中へと立ち上がる術を心得ているからにほかならない。

芸術が黄金的価値を持つ所作であるとすれば、アートは紙幣的価値しか持たない。
つまり、それは黄金を偽装する偽金作りなのである。
その意味で、アートという言葉は、もはや真の芸術を提供できなくなってしまった作家たちの自己正当化のための逃避のジャンルとも言える。

似非錬金術師たちよさらば。
アートではなく今こそ芸術を僕らの手に奪回しよう!!

http://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=2181#comments より転載>



これを読んでいて、私は泣けてきました!

本当に素晴らしいっ!!

ご本人も音楽をされてきたので、その深みの境地をご存じなのだと思います。



私は意味も解らず、ただ感じていた違和感から自分をアーティストと名乗ることはできませんでした。

ですから、自らをずっと画家と称してきました。

私もまだまだ自分の生み出す作品が、自己満足の枠を超えているとは思っていません。

時には、みえてきたものをそのまま感性に任せて生み出す・・・そういうインスタント的な時もあります。

そういう見地から言えば、誰かの魂をリーディングして代わりに表現するなど、エゴ極まりない自我の驕りであり、如何にそれを紙幣に還元するかという、、、結局は、マネーゲーム絡みの陳腐なままごとのように、私には見えます。

その人のいのちの深み、奥行きは、本来その人にしか表現できないものなのですから・・・。

それくらいの深い尊厳を持って、自分と他者が存在するこの空間を感じ、描く世界に挑み始めた方々に表現していっていただきたい!!そう心から願います。


自分は何がみたいのか!!どういう世界を表現したいのか!?

こう自身に問いかけ、自分の魂の、永遠持続のいのちの深さを賭けてキャンバスに向かう・・・私はまだそのほんの入り口に立ったばかりなのだと思っています。

ヌーソロジーに出逢って、このような考察に至ることができたということは、如何にヌースが深遠なる世界とここを繋ぐ(重ね合う)思惑の指標となり得ているか・・・それを物語っていると思います。


私たちがかつてみていたイデアを、これからも芸術というツールで表現し、忘却の彼方に忘れている我々の魂の記憶にアクセスする一つの道となるような・・・そんな世界を、これからも作品に表現していきたいと思っています。



本当に、ヌーソロジーの哲科学体系が、自分の今までの体験と重なり、一体になればなるほどどんどん気づきが訪れます!

すごいものが顕れてきましたね!!

私たちは、まさに今、新たな世界=今までにない進化の道を歩き始めたのだと思います。。。