三原です。今回はドラマを作るときの人物の描き方の話。

 

当たり前ですが人間には人前で見せる「表の顔」と、人前で見せない「裏の顔」があります。(ここでいう裏は悪い意味ではない)

そしてドラマの中ではこの「表」「裏」のギャップで感動が生まれる。例えば、故郷を離れる息子を見送る母親。「あんたが居なくなってやっと自由になるわ!」なんて言いながら息子と別れた後に、ふと寂しげな横顔のカットが映る。そこで観客は「ああ、母ちゃん無理してたんだ」という新情報を知り、グッと心を掴まれる(切ない!!) そういうギャップです。

 

つまりはこの「裏側」のエピソードにこそ人間の魅力が詰まっており、表面だけ見てあーだこーだ言うのはあまりにも浅はかですよね。そうやって浅はかに芸能人を叩いたりする風潮が本当に嫌い。

 

昨日は久々にコラボで動画を撮りました。コラボした相手は台湾YOUTUBE界でも屈指の「天才」クリエイターで、彼の動画は他の誰も真似できない発想、そして表現。誰もが認めるその才能で見事にポジションを確立した人間だ。

 

普通の人は「いいなぁ、あんなに才能があって」というところで終わるのだが、もう少し裏側を想像するに、その才能を自分で信じながら突き進むことの怖さは計り知れないはずだ。

 

彼が話していたのは「自分が面白くないと思う動画を撮ることが怖い」

これは物凄く突き刺さる言葉だった。自分の感性を信じ切らないと言えない言葉だし、なによりクリエイターとしての信念を感じる。カッコいい。

大袈裟に言えば「時代が俺に付いてくる」と信じ作り続けるタイプだ。かっこいい。

でもきっと心が折れかけたことは1度や2度ではないはずだ(ちなみに彼もまたかなりの古株で早咲きタイプではないのだ)

 

じゃあ自分は?彼と会うのはほぼ2年ぶり。お互いチャンネル登録者数も2年前より格段に増えた。

でも、自分は「自分が面白くないと思う動画」に何度目をつぶって来ただろうか。

 

映画を撮っていたときは天に誓って一度も無かった。「これは面白い」というレベルになるまで編集やリテイクを重ねたし、当時の自分の100%をぶつけた。だから今見返しても、過去の自分からガツンと殴られることがある(もちろんクオリティが足りてない点は多々あるが) おいおいお前はそんなもんか、と。

 

YOUTUBERになってからは良くも悪くもプライドを捨てた。最初はクリエイター気取りの殻を捨てるのに苦労したけど、流行りにしがみついて、再生の取れるものやって、PPAPも恋ダンスも必死にやれるものをやってくうちに「面白く無いと思う動画」にも目を瞑れるようになった。

(誤解の無いように言うと、それらはもちろんテキトーに作った訳ではなく、これなら観客が喜んでくれると言う信念を持って動画を作ってきたという意味)

 

ようするに他人(視聴者)の顔色を伺いながら動画を撮っていたのだ。

 

もちろんこれも、だから「かっこ悪い」なんて思ってる訳ではなく、自分が売れるために必死にやってきた結果だから自分自身では肯定するべきものだと思っている。俺の信念よりも時代。

 

実は一昨日、台湾の忘年会(旧正月なので)でもう一人クリエイターに会った。そいつも僕と同じ時期からずっと同じように動画制作を続けて来た。台湾では珍しく毎日更新してた。彼は天才タイプではなく、視聴者の好みを見ながら流行りを追いかけて来たタイプ。

 

 

ただ彼はここ半年、めっきり動画をあげなくなった。

 

 

その理由を聞いて見たら「自分がやりたい動画とみんなが見たい動画は違う。みんなが見たい動画を撮り続ければ生活はできるけど、心がむなしくなって疲れちゃった。」と言ってた。

 

 

もう抱きしめたい。そんなことを言われたら。「お疲れ様」と。

 

 

どちらかと言うと先に述べた天才は少数派で、ほとんどの人はこうやって自分をぐにゃぐにゃに曲げながら世の中にフィットしようとしてる。

だから大衆映画では後者の感情が描かれることが多い(感情移入しやすいし)。それはそれで一つのストーリー。

 

じゃあ天才は?天才は天才として色白で金髪で猫背みたいなステレオタイプとして配置されるだけのことが多い。けどこうして天才の生みの苦しみを目の当たりにすると、やっぱりちくしょうって思っちゃう。そのカッコ良さ。明らかに疲れてたし、軽く目は血走ってたし。もうなんかカッコいいよ。

 

 

総じて言うと、そんな「人間の裏側」を久々に実感して、やっぱみんな苦労しながら生きてるんだなって気分になって、すれ違う人全員にお疲れ様です。って言いたくなった。そんな夜でした。

 

 

 

皆さん、人生お疲れ様です。

 

 

 

 

 

おわり