日々の備忘録としてブログに文章を残そうと思う。特に誰かに見てもらうために書くわけではないのだが、もしこの日記的記事を閲覧する際には注意してほしい。 

 

 このタイトルにもなっている通り私は卑屈に卑屈を塗り固めたような傾いた人間であるので、決して本気になってはいけない。ただただこのような人間がこの世に存在するということを了承し、あなたはあなたの明るい人生を歩んでいただきたいと思う。

 

 ただ、もしあなたの身の回りに、ありとあらゆることを否定し、自己肯定感が低く、自意識が過剰で、そのくせ見た目に気を使っていない、アラサーの外見をした童貞中学生がいたとして、彼の年齢不相応な行動に辟易しているとしたら、このブログは役に立つであろう。その彼の考え方や信条などはきっとこのブログにくまなく表現されているだろうし、対処法も自ずとわかってくるはずである。

 

 二十余年この性格で生きている僕が言うのだから間違いない。

 

 ただ、以上のように自分を卑下することが最近できなくなったと感じる。というのも、自分の不幸話は他人にとって負担にしかならないということに最近気づいてしまったのだ。よくよく考えてみたら当たり前である。聞き役は、自分の不幸話に「それはお前が悪い」というのははばかられるため、「それは残念でしたね」「あなたは悪くない」と言わざるを得なくなる。逆に言えば、自分は不幸話をした時点で聞き役にフォローを強制しているのと同じなのである。相手の良心に付け込んで聞き役にへりくだらせて、相対的に自分が優位に立とうとするただのマウンティングであるということに最近になってようやく気付いた。

 

 ああ、このことに気づかなければよかった。気づかなければ、仕事の同僚に永遠と上述した不幸のマウンティングを取り続けていられたのに。 

 

 こんな最低な記事を執筆中、あることを思い出した。

どっかの哲学者が言っていた、「知識の輪」という考え方である。

ある人間が「知らない」と知覚することができるのは、知っている範囲の近傍だけである。という考え方であり、知識が増えるほどその近傍の知らないことが浮かび上がってくるということを意味していて、逆にものを全然知らないような人間は自分が「知らない」ということが知覚できず、尊大になってしまうというものである。

 

仕事柄、尊大になってしまった人と多少の会話をするのだが、どうだろう。いざ会話してみると、彼らの多くは満たされているのだなと感じる。社会的に弱い立場の人を理不尽な理由で恫喝し、自分のちっぽけなプライドをさらに研ぎ澄ませ、安易な欲求の解決を図る(安酒を飲むなど) 

正直勘弁してもらいたいのだが、同時にこれは一つの人間の解ではないだろうかとも思う。実に動物的で、人間の野生の部分の欲求を見事に解消し、自分は全く傷ついていない。かつ金銭的な余裕がなくても可能である。合理的であると言わざるを得ない。SNSで有名人に無益な悪口を投げかけている暇人と似たところがあるなと思う

 

 ただ、この解を正しいと認めるわけにはいかない。この解を正しいを認めるということは、、スーパーやコンビニの店員をストレスのはけ口として扱うということになってしまう。店員はこのような底辺の自慰行為を手伝うために存在しているのではない。底辺は疾く住処にかえって何らかのクレーマー対応用自動音声にキレ続け、真の意味での自慰行為に浸っていてほしいものだ。