(159)私の古墳の楽しみ方  

その1「前方後円墳の多様な形と比率」

古墳を巡る楽しさや古墳の魅力を知人や友人に語ると、10年前まではちょっとマニアックな人として見られることが多かったが、古市・百舌鳥古墳群が世界遺産に登録されてからというもの、古墳巡りが観光の一部として認知されるようになったと思う。

そもそも古代の日本(倭)の国(支配形)を作ろうとした私たちの遠い祖先の話でもあるから、ないがしろにはできないのが日本人の心というもの。

私の好物である古墳、特に前方後円墳は、3世紀から6世紀にかけてヤマト王権が、全国を支配下に治めていく過程で、特に前方後円墳という独特の「墳形と規模」をもった友好(服属?)のシンボルの築造を「地方豪族のステータス」あるいは「最先端の流行」に仕立て上げた優れた統治手法の一つだったと言っても過言ではない。

 そんなことを想像しながら、全国を渡り歩いて沢山の古墳を拝見するうちに、一口に前方後円墳といっても実は平面形や断面形、石室の構造などなど千差万別で、時代背景の変化だけでなく築造技量による影響が大きかったに違いないと思うようになった。

この墳形を地方豪族が築造するには、ヤマト王権の許可が必要であったなら、技師の派遣以外に粘土板や線刻画にして送っていてもよさそうだけれど、出土例がまだないのだ。

もしかしたら地方の築造担当者が、纏向の古墳を自分で見に行ったり、目撃者の話から想像して造ったり、自己流にアレンジしたこともあったに違いない。


ブログでは、様々な特徴のある前方後円墳の自分なりの楽しみとして、「六つの視点」を勝手に図化して紹介しようと思う。前方後円墳好きの方ならきっと共感いただけるに違いない。


◎その1・前方後円墳の多様な形と比率

平面形で前方後円墳といっても

 

指標1「後円部と前方部の大きさの比率」

 

 

箸墓古墳(3世紀末) 後円部直径160m:前方部幅147m 指標1=1.088

西都原古墳群・13号墳(4世紀末) 43.2m:25m=1.728

大仙陵古墳(5世紀前半) 249m:307m=0.811

茨城・富士見塚古墳(5世紀末) 38.4:49.4m=0.777

さきたま古墳群・二子山古墳(6世紀前半) 67m:83.2m=0.805

 

 

指標2「全長に対する後円部の比率」

 

箸墓古墳(3世紀末) 後円部直径160m:全長280m 指標2=0.571

西都原古墳群・13号墳(4世紀末) 43.2m:79.4m=0.544

大仙陵古墳(5世紀前半) 249m:486m=0.512

茨城・富士見塚古墳(5世紀末) 38.4:80.2m=0.478

さきたま古墳群・二子山古墳(6世紀前半) 67m:132m=0.507

 

ましてや前方部の長さや形
2段・3段・5段築成のテラス(平面部分)の幅も違う。

 



宮崎県・西都原古墳群・13号墳

 

断面形でみても

指標3「後円部と前方部の高低差」

 

箸墓古墳(3世紀末) 後円部高さ30m:前方部高さ16m 指標3=1.875

西都原古墳群・13号墳(4世紀末) 6.7m:4.1m=1.634

大仙陵古墳(5世紀前半) 35.8m:34m=1.052

茨城・富士見塚古墳(5世紀末) 8.5m:9m=0.944

さきたま古墳群・二子山古墳(6世紀前半) 11.7m:13.7m=0.854

 

 

茨城県の富士見塚古墳

 

前方部から後円部へ向かう傾斜角度

2段・3段・5段築成の段ごとの高さも違う。

 



 

愛知県の志段味大塚古墳(帆立貝型)

 

「造り出し」もあったりなかったりで、設置場所も微妙に違う、二か所だったりする。
群馬の保渡田古墳群では、墳丘と周堤の間に複数の中島(陪塚ではない)まで存在する。



群馬県保渡田古墳群


周溝(堀)の形も、一般的には盾型だが、埼玉県の「さきたま古墳群」では

長方形(台形)で突出部までついている。

 

さきたま古墳群二子山古墳


周溝(堀)の深さも様々だが「空堀」だったり水が張ってあったりする。
格が上がると二重濠だったりする。堀を横切る「渡り」がある場合がある。

 

墳丘の形だけでもこれだけ違うから面白い!


指標1・2・3を総合的にみると確かに大仙陵古墳(5世紀前半) さきたま古墳群・二子山古墳(6世紀前半)は極めて相似形に近いと言えるだろう。


次回は(その2・石室の形式・構造と石棺・壁画)を図化してみたい。

図化するのにちょっと時間がかかるかも!

引用・参考/訪ねた前方後円墳及び現地案内版など