ここに記載するお話は「八日市郷土文化研究会」の中島会長とのメールでのお話や
戦時中のことを語っておられる三船さんの雑誌からの抜粋などによる
「八日市基地でのこぼれ話」です。
従軍時代が一番長いであろう、滋賀県八日市飛行場従軍時代。
9000人近い兵士が従軍し、特攻隊もいたとのこと。
三船さんの所属は、航空教育隊、特業の炊事班。
配属は写真班だと思いきや、実は炊事係だったということでここでも色々な逸話が
残っているのは、既に昨日の記事でご存知だと思いますが他にもいい話、あります。
古い新聞からの記事で
「同じ古参の上等兵の背広をつくってやるため、当時、数少ない彦根市の洋服屋を訪ね、
『なんとかしてやって欲しい』」と頼まれたとの話が当地の古い新聞に掲載されていました。
ミフネさんのなじみの洋服屋だったのかも知れませんね。
これは友情に厚いミフネさんらしい逸話です。(談:中島会長)」
とあったと頂きました。
三船さん自身が背広を持っていて、休日には革靴を履いて背広を着て風を切っていた、という
話がありましたが、自分だけじゃなくて仲間の古参兵の分も頼んでいた、しかも物資の
乏しい戦時中に。ということで、そのミフネネットワーク(略してMNW)は凄いと
思わずにはいられません。(松本古参兵のお話とかからも分かりますが)
しかし、私は考えました。
なぜ「背広」なのか?なぜ、そこまでこだわるのか?
着てたらモテるのか?昭和20年代のモテアイテムなのか?
戦時中の感覚ではそうかのか?それとも、三船さん自身がスーツ大好きなのか?!
しょうもないことながら、実はずっと気になっていましたが、その”答え”は三船さんの
インタビューにありました。それについてはエピローグにてお伝えできればと思います。
さて、炊事班の三船ちゃんの逸話についてのこぼれ話についてです。
「長いこと炊事なんかもやっていた。炊事班長が軍曹で同年兵だった。正月なんか酒が
入ると、九千人の部隊だから一石ぐらい来るんだ。その中から四斗樽一つぐらいゴマ
かすのは自分としては実に易易たるものである。
日夕、点呼後に各中隊の週番上等兵を集めては「おい、飲みたいだけ飲め」というよう
なもんである」(人気スタア半生記「僕の自敍伝」より」)
何よりも戦時中の三船さんを知るにあたって思ったのは、きっと終生変わること
がなかったであろう「仲間との絆」です。
日本の戦局よりも、軍内の栄達よりも大切だったのは仲間との友情だったと私は思います。
だから自分の身が危なくなっても、仲間思いな行動は変わらなかったと思います。
それが「蒲生野」の中で載せられている軍隊内では許されることではなかった行動も
咎めたり、密告するような”仲間”はいなかったというところからも現れていると
思います。
なお現在、八日市飛行場は終戦後に解体。
今はほぼ田んぼですが、慰霊碑、大きな掩体壕は残っています。