翔が一歩前に出る。

「あなたは何も知らないとおっしゃいましたよね。これはどういう事ですか」

丁寧な言葉遣いではあったが、抑えた声が怒りで震えていた。雅紀はまだ無言だ。

「これには色々訳があってね…」

三浦医師は軽く手をすり合わせながら、にののカプセルベッドにゆっくり近づいてきた。

「訳ってなんですか」
「黙っていたのは悪かったと思っているよ」
「…騙していたんですね」
「結果的にそういう事になるんだが、私もね、心苦しかったんだよ。しかしだね…」

翔が「ふざけるなっ!」と三浦医師に掴みかかろうとしたのを見て、雅紀もとっさに怒りにまかせて前に出ようとした。
しかし、握っていたにのの手がすがるように握り返してきたから、ハッとにのを振り返った。

「黙っていてほしいとにのくんに頼まれてしまってね。悪いとは思ったが、言えなかったんだよ」

三浦医師は肩を落としてそう言った。
拳を振り上げかけた翔は絶句して固まり、その大きな目でにのを捉えた。
にのが三浦医師の言葉を肯定するように、ゆっくり目を閉じたのを見て、翔は今度こそガックリと膝から崩れ落ちた。

「なんでだよ…」

智も棒立ちになり、その緩んだ手から本郷が解放される。本郷は小さく舌打ちしてから、自分の胸元を軽く払って整えた。
潤はベッドに張り付いたまま、涙を流しっぱなしで呆然とにのを見ていた。

静寂の中、三浦医師は近くの丸椅子をゴトゴト引き寄せ、ため息とともに腰掛けた。

「あの事故で運ばれてきた患者は、ほとんど亡くなってしまってね…」

まだ息のあったにのも、そう長くはないだろうと思われていた。
全身状態も悪く、意識も戻らない。原因が未知のウイルスだったため、ずっと隔離せねばならなくて、窓越しに翔たちに合わせるのもたった一度で精一杯だった。
正直、ただ死を待つのみ…と言っても過言ではなかった。己の無力さを呪った。愛弟子の翔も悲しむだろう。

そんな最中、にのが意識を取り戻したのだった。
奇跡だ。奇跡が起こったと嬉しかった。
しかし、目を覚ましたにのには重い後遺症が残ってしまっていた。鎖骨の辺りから下はほぼ麻痺してしまっており、自力で動かせるのは、頭と腕くらいで、指先は力が入りにくい状態だ。

「みんなには知らせないで」

そんな彼の願いはそれだけ。
新たな苦悩の日々の始まりだった。