「おなかが痛いのね?大丈夫?」
「痛くありません。急にトイレに行きたくなっただけです」
先生が心配してくれたが、僕は断固として否定した。まだ少し不安定だけど、もう痛くないから嘘じゃない。かずくんに顔を見られたくなくて、二人を押しのけトイレから出ようとした。
「でも、さっき…」
かずくんが余計なことを言いそうで、とっさに僕は怒鳴ってしまった。
「うるさいな!」
「ひっ…」
はじかれたように、「わぁん」とかずくんが泣き出した。先生が「心配してくれてるのに」と僕を諌めたが、僕は全部無視で、後ろも見ずに手を洗った。
かずくんの細い泣き声は、二階に続く階段の吹き抜けを通って高い天井まで響いた。
あぁ、僕はバカだ。
泣くなと言った僕があの子を泣かしてる。そして黒目を呼び寄せてるのも僕なんだ。なんてこった。
案の定あいつが二階から走ってくる音がした。
「かずくん!どうしたの」
「まーくぅん…」
僕は振り返らずにしつこいくらい手を洗い続けた。背中に黒目の視線を痛いほど感じた。なにか言われるかと内心身構えていたが、黒目はなにも言ってはこなかった。優しくなだめるあいつの声としゃくりあげるかずくんの泣き声が遠ざかっていった。
先生がなにか僕に言っていたけど、ほとんど耳に入ってこない。謝らなければと頭ではわかっているんだ。お母さんにガッカリされるのもわかっているのに、なぜだか言えなかった。
少なくともあいつの前では絶対言いたくないと思う自分が不思議だった。
あんなにキッパリ痛くないと言ったのに、先生はうちに連絡をしてしまい、ねえやが少し早めに迎えに来た。まだみんなが好き勝手に遊んで騒がしい園庭を、ねえやに連れられて歩く。僕だけ違う世界にいるみたいで、透明人間にでもなった気分だ。
チラリと振り返ると、さくら組の靴箱のところでかずくんが黒目と手を繋いでこっちを見ていた。
小さい白い手を口元に当て首をかしげている。
うっかり目が合って緊張する僕に、かずくんが口に当てていた手を開いて小さく手を振った。
ほんの少しだけど、あのコハク色の瞳が笑っているように見えた。
気のせいかもしれない。きっと気のせいだ。
僕はぷいと前を向いてねえやのあとを追った。