「今日はかけっこしましょう!」
五月の思ったよりも強い日差しの下で、さくら組の先生が地面に白い粉で線をひく。
先生が説明する中、みんなは「オレが一等だあ!」とか「一緒に走ろっ」とか騒ぎ出し、なかなかな盛り上がりだ。
僕も「かけっこ」と聞けば血が騒ぐ。
お父さんみたいに一位になるんだ。向こうの幼稚園では年少の頃からずっとクラスで一位だったし、ここは絶対一位だろ。足の速い奴らをどんどん追い抜いて、こっちでもクラス一位になってやる。
鼻息荒くかずくんはと見れば、なんと下を向いて足元に落書きをしていた。
「おい。先生の話、聞いてたのか」
「かなたくんならぁ、どの道具がほしい?」
「どうぐ?」
「僕はねぇ、どこでもドアかなあ〜」
先生の話どころか、僕の話も聞いてやしない。よく見れば落書きもドラえもんか。どんだけ好きなんだよ。あんなパンツ履くだけのことはあるなと呆れるのが半分、感心するのが半分。
かずくんはしばらく独り言のように道具の説明をふわふわしていた。それはなんだか歌のようで、僕は黙って聞いていた。
かけっこは五人ずつで組になって走る。
僕はかずくんと同じ組だった。一つ前の組がスタートの合図を待っている。それを見たら少しおなかがしくと痛んで、僕はヒヤリとした。
こんな時に嘘だろ。
いや、走るのなんてあっという間だ。大丈夫。
おでこにじわっと汗が滲んだが、これは今日暑いからだ。冷や汗なんかじゃない。
そう自分に言い聞かせてるうちに、前の組が走り出して、僕たちの番がきた。
一緒に並んだかずくんをチラリと確認すると、やる気があるのかないのか、どこか遠くを眺めていた。
「おい…転ぶなよ」
「ん〜?」
「おまえが泣くとめんどくさい」
かずくんはさすがに口を尖らせて僕を見た。
なんだよ、ほんとのことだろ。どうせまた黒目が飛んでくるか、かずくんが黒目の教室に潜り込むかになるんだから。そう思ったところで、またおなかがしくしく痛んだ。僕はこぶしを握って前を向き、かずくんの不満そうな視線を無視した。今は走ることだけ考えろ。
「よーい、スタート!」
先生の声で走り出す。
おなかは痛かったけど、このままトイレに駆け込むくらいの勢いで走れば大丈夫だ。
そう思ってめいっぱい走る僕の横をするりと追い越していく白い背中が目に入る。
風みたいにふわふわした小さな背中。
「えっ……」
思わず声が出た。そして目を疑った。
そのままその背中を追ってゴールしたあとも、信じられなくて目の前のかずくんをじっと見つめた。
かずくんは照りつける日差しの中で、汗ひとつかかず、息もきらせず、僕の前に立っていた。
「だいじょぶ?顔色悪いみたい」
そう言ってかずくんが僕の顔を覗き込んだとたんにおなかの痛みを意識する。全身から汗が吹き出したが、もう冷や汗なのか恥ずかしさからなのかわからない。
「おまえに関係ない!」
僕は二位の列の先生に掴まれた腕を振りきって、トイレに向かって走った。先生の心配そうな声が追いかけてきたが、構わずトイレに飛び込んだ。
公園のトイレから逃げ出した時より、もっと死ぬかと思った。あの時はオシッコだったし。
間に合ってホッとしたら、勝手に涙が出てきた。
幼稚園のトイレって、なんでドアが小さいんだろう。上から下までぴっちり閉まればいいのに。
僕を心配する先生の声が近づいてきたから、僕は慌てて体操服で顔を拭き、水を流した。
トイレに入ってきた先生の後ろにかずくんがいた。先生のエプロンのはしっこを握って、心配そうに様子をうかがっている。
泣いていたのがバレてしまった気がして、僕はうろたえた。