吉野川を見下ろす箸蔵山の頂上に開かれた箸蔵寺(はしくらじ)。四国でこれほど多くの動物に出会うお寺はないでしょう。本坊では阿吽の虎が迎え、護摩殿に進むと、鳳凰がこちらを見下ろし、十二支や鯉が優雅に遊び、獅子や麒麟、獏が見守っています。きわめつけは、石段を上った先に建つ御本宮。参拝する私たちを待ち構えるように、獅子や龍が見下ろし、大きな天狗もカッと目を見開いています。といっても、生きている動物の話ではなく建築装飾として彫刻された霊獣のこと。あまりに生命力にあふれているので、彫刻であることを忘れてしまいそう。造形美もさることながら、職人の想いが時代を超えて伝わってくるのです。作者は、伝説の彫刻職人、左甚五郎の弟子が手がけたのではないかと言われています。〜三好市公式観光サイト 大歩危祖谷ナビより〜

成田屋三升紋のある石灯籠、東京から離れた地に何故なのか、気になりました。地理的に金比羅大芝居と関係があるのかもしれません。
調べるうちに「養子に出した子に対する、想い、情」のように...

【箸蔵寺・はしくらじ】
明治初年の神仏分離令以前、香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮が、象頭山金毘羅大権現と称し松尾寺金光院が別当だったころ、こんぴら奥の院と称し、現在でもそのように云われている。讃岐の金毘羅さんは神社となっているが、神仏習合の風習を色濃く残す寺院である。
伝承によれば平安時代前期の天長5年(828年四国巡錫中の空海(弘法大師)が、当地に霊気を感じ山上に登った。すると金毘羅大権現が現れ「を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」というお告げを空海に授けたという。そこで、空海は自ら金毘羅大権現の像を刻み堂宇を建立したことが始まりと伝えられている。 

【市川團十郎の灯篭】
護摩殿前にある一対の灯籠。江戸時代末期、七代目團十郎であった市川團十郎が寄進したもので、三升紋と八代目團十郎を含む七人の息子の名も刻まれている。

上から見ても三升となる石灯籠、三升紋もいくつも彫られています。

上段→「奉納」
中段→「子孫蕃育祈」・・・子孫が繁栄するようにの意。
下段には海老蔵(七代目市川團十郎)とその息子7人の名前

(右から)
七代目 海老蔵
伜 八代目
団十郎(長男)
重兵栄(二男)
高麗蔵(三男)
猿 蔵(四男)
幸 蔵(六男)
赤 乎(七男)

権之助(五男)

建立年月日はなぜか記されていません。この謎についての考察、詳しくは箸蔵寺のホームページ、 第29号特集をご覧ください。

襲名歴

1. 三代目河原崎長十郎  2. 初代河原崎権十郎

3. 七代目河原崎権之助  4. 河原崎三升

5. 九代目市川團十郎

1838年11月29日(天保9年10月13日) - 1903年明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号成田屋定紋三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越秀(ほりこし ひでし)。

生後すぐに河原崎家の養子に、後に市川家に戻り九代目團十郎を襲名、数多い功績から劇聖と謳われる歌舞伎役者である。