幡随院長兵衛に関する錦絵を調べていたら俳句が書かれたものがあり...豊原国周筆、画工 荒川八十八、版元 山村金三郎

新古歌舞伎一八番 

九代目團十郎の幡随院長兵衛


一疋と 空にも名のれ ほとゞきす  春路


長兵衛を男一匹ととらえたものなのか、季語はホトトギス、夏の季語。別名、不如帰、死出の田長、冥土の鳥、あの世の使者とも。

長兵衛の死を悼んだ俳句なのでしょうか。

先人も歌舞伎から色々と影響を受けたのでしょうね。

春路を検索しても出てきません。俳人から調べてみたら...加賀、小松の人のようです。

『加能俳諧史』安永七年の箇所に

安永七年戊戌(1778)閏七月樗良はことし春秋二度加賀に来遊した。樗良発句集に

「安永七三越路行 ことしの春は心おとろへ筋骨からみたましゐの静ならされは加賀の国山代の温泉にあそはむと思ひ立出る山路さむけれとやよひのすゑなれは桃さくら山吹な咲みたれたり」これ春の紀行である。雪の声によれば秋の頃越後高田を去った樗良は越中に入りさらに小松に来遊した。小松の凡夫、岩下の二人はこの時遠くに越後に樗良を迎え、樗良は越中の在貫を伴うて小松の正雲精舎(小松鍛治町真宗正雲寺)に春を迎えた。樗良と連句に一座した小松の連中は、可丈、雪人、凡夫、万艸、一青、春路、波泉、如今、樗人、岩下、尺屮、勇司、一斧、百史、序水であった。波泉は麁上句帳に載せる啓明庵玻泉であろう。...


右の太平記、児島備後三郎の句は

あちからも 人をや またむ 山さくら  花朝女