團菊祭五月大歌舞伎、昼の部は『極付幡随長兵衛』(院を除いて縁起の良い七文字)が上演されています。幡随院長兵衛(役名は六文字)は十三代團十郎さんがつとめています。

幡随院長兵衛は佐賀県唐津市相知町久保に生まれ、唐津藩、旧波多家家臣塚本伊織の子息、本名は塚本伊太郎。主君因幡守勝が竜造寺隆信に攻められ城を追われたため、伊織は伊太郎を連れ江戸に向かうが途中、下関で病死したとされる。江戸の幡随院和尚を頼った伊太郎、年は12歳ころ。浅草幡随院門前町(現在の台東区神吉町)に京都の浄土宗知恩院末寺幡随院があり、その門前町長屋に住んでいた。「米で育ったこの身体...」ついには強きを挫き弱きを助ける男の中の男「人は一代、名は末代、天晴れ武士の心かな」。

幡随院長兵衛の名台詞

いかにも命は差し上げましょう
兄弟分や子分の者が留めるを聞かずただひとり
迎いに応じて山の手へ流れる水もさかのぼる
水野の屋数へ出てきたはもとより命は捨てる覚悟
百年生きるも水子で死ぬも持って生まれたその身の定業(じょうごう)

卑怯未練に人出を借りずこなたが初手からくれろと言やあ 名に負う幕府のお旗本八千石の知行取り
相手に取って不足がねえから綺麗に命を上げまする
殺されるのを合点で来るのはこれまで町奴で
男を売った長兵衛が命惜しむと言われては
末代までの名折れゆえ熨斗をつけて進ぜるから
度胸のすわったこの胸をすっぱりと突かっせぇ

大正時代、東京に長兵衛銅像を建立する計画があったそうです。生誕地とされる公園には昭和5年に高さ15mの生誕碑が建立されました。

過去帳によると1650年慶安3年4月13日、享年38歳、法名は善誉道散勇士。善き道に散った勇士。

十二代團十郎さんの長兵衛、歌舞伎衣装は役者絵と似ていますね。

四つ上の姉さん女房、法名は善香寿散信女(ぜんこうじゅさんしんにょ)おきんの父・惣右衛門が、山脇家の菩提寺である源空寺に、自らよりも先立った娘夫婦を弔い、地蔵菩薩を彫った2基の墓を建立。