三友寺(さんゆうじ)

岡山市門田屋敷は元は門田村、武士の住宅が建ち並ぶことにより門田屋敷となった。寛永9年(1632) 岡山藩主となった池田光政公(播磨姫路藩第3代藩主)により、播磨国(現在の兵庫県の一部)から移築された。明治20年(1887)に、石井十次が、寺内に孤児教育会を設立。昭和20年(1945) 岡山大空襲によって本堂など諸堂を焼失、山門のみ焼損したものの現存している。

岡山大空襲

第二次世界大戦末期の1945年6月22日早朝に、現在の倉敷市水島臨海部に対して、アメリカ軍により戦略爆撃が行われた(水島空襲)。その一週間後の1945年6月29日午前2時43分から午前4時7分にかけ岡山市に対し行われた。計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された。空襲警報が出されず全くの不意打ちであったため死者が1737人にも及んだ。この空襲により、岡山城も天守閣・石山門など全焼。倉敷からみると岡山の空が真っ赤に染まった。(この時期は大阪でも度重なる空襲があった。)

大阪大空襲

第二次世界大戦末期にアメリカ軍が繰り返し行った、大阪市を中心とする地域への戦略爆撃ないし無差別爆撃の総称。1945年3月13日深夜から翌日未明にかけて最初の大阪空襲が行われ、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲があり、合計8回の空襲で10,000人以上の一般市民が死亡したと言われている。

 

石井十次(1865-1914)

明治期の慈善事業家。岡山孤児院を創設。その功績から、保育の分野では著名で「児童福祉の父」と言われる。高鍋藩の下級武士、石井萬吉・乃婦子(のぶ子)夫妻の長男として宮崎県で生まれた十次は明治15年(1882) 医学を学ぶため岡山市に移住。岡山甲種医学校(岡山医科大学、現岡山大学医学部)に入学。明治20年(1887)上阿知(かみあち/岡山市東区)の診療所で代理診療を行う中で、四国巡礼から帰る女性から一人の男児を引き取った。これをきっかけに9月22日、孤児教育会(後の岡山孤児院)を岡山市の三友寺で創設。その後医学の道に進むことを断念し生涯孤児救済にを捧げることを決意した。明治39年(1906) の最盛期には1,200名の孤児を養育した。

また十次はフランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーの「エミール」教育の感化を受け、郷里の宮崎県茶臼原(ちゃうすばる)に岡山孤児院の分院を建設し始め、明治38年(1905)頃から大移住を開始、明治末には全てを茶臼原に移した。茶臼原分院建設にあたり歯磨き、石鹸、洗剤などで有名なライオン社の援助があり、ライオン歯磨慈善券による寄付金はコッテージ(小舎) の建築に使われ、十次は、慈善券の精神を忘れないためこれらのコッテージを「ライオン館」と名付けた。 「ライオン館」は明治34年(1901)~明治43年(1910)までに岡山と茶臼原の地に合わせて10棟が建てられた。

ライオン館

十次は、茶臼原230ヘクタールの広大な地に理想的農村共同体を実現しようとしたが、惜しくも大正3年(1914)志半ばにして倒れることになった。十次亡きあと、その事業は大正15年(1926)一旦閉じられたものの、昭和20年(1945)10月、太平洋戦争被災孤児救済を目的に「石井記念友愛社」という名前で再開され、現在も十次の精神が引き継がれ、児童養護施設、乳児院、保育園をはじめ障がい者の介護といった幅広いサービスを提供、活動が続けられている。

石井記念友愛社(宮崎県児湯郡木城町/こゆぐん きじょうちょう)

石井十次資料館(敷地内)

一方、岡山市には岡山孤児院の一部(小舎制の家屋1棟) が新天地育児院(児童養護施設/岡山市中区門田本町)の敷地内に移築され、「石井十次記念館」として保存されている。次回岡山市訪問時には是非訪れてみようと思っています。

石井十次記念館

平成16年(2004) 殿が石井のお父さんを演じられました。