大橋家は、倉敷では、大原家(新禄)、井上家(古禄)と並んで観光スポットとしても有名な旧家(新禄)。この度初めて見学しました。昨年のちょうどこの時期、円福寺(倉敷市沖)を訪れた際、ご住職から寺の過去帳が幕末の争乱時に第二奇兵隊により焼失したとうかがっていました。その騒動の首謀者が大橋家の養子、大橋敬之助(けいのすけ/のち立石孫一郎)であったらしくとても興味深く訪れました。敬之助はここで3年ほど過ごしたようです。
大橋家住宅
この家は、倉敷の旧家大橋平右衛門の別宅(国指定重要文化財)として建てられたものを、昭和41年、現在地に移築したもの。大橋本家を「元大橋」といい、この家は本家の50メートルほど西方にあったので「西大橋」と呼ばれていた。大橋家は、江戸後期の倉敷において、塩田・新田開発によって財をなした大地主で、大原家と共に「新禄」と呼ばれる新興勢力として倉敷の豪商の一軒であった。
《幕末の騒動》
倉敷下津井屋事件
1864年豪商下津井屋の当主とその子が殺害された事件。殺害しただけではなく、屋敷には火が放たれ、首を川(倉敷考古館の辺り)に放り込むという残忍な所業や、屋敷に火まで放つという行為から、下津井屋へ対する私怨(しえん)が疑われた。そこで容疑者として浮上したのが大橋敬之助だった。敬之助は播磨(現在の兵庫県)佐用郡上月の出身で、元の名は大谷恵吉。縁あって倉敷の大橋家に婿入りし大橋敬之助を名乗り西大橋家を立てた。元治元年(1864) 新禄下津井屋の米の横流しの不正を暴き倉敷代官所に訴え、結果下津井屋一派は逮捕された。しかしまもなく赴任してきた新しい代官桜井久之助は下津井屋一派を釈放。理由は下津井屋の縁戚でやはり新禄である小山家が、代官に賄賂を送ったためではないかということだった。身の危険を感じた敬之助は逐電(ちくでん)、その20日後に下津井屋は全焼、人々は敬之助の仕業だと噂したが真偽は不明のままだった。
倉敷考古館(手前は中橋)
新禄古禄騒動
江戸時代の倉敷には、大きく2つの派閥があった。1つは古くから倉敷で財を成してきた古禄派、もう1つが新たに頭角を現してきた新禄派。徐々に衰退していた古禄派だったが、古くからの名家なので様々な面で特権を保持していた。そこで利権を巡っての争いが起こり、それが新禄古禄騒動と呼ばれるもので、最終的には新禄派が勝利する形で決着したが下津井屋事件も古録派と新禄派の対立によって発生した事件ではないかと考えられている。
浅尾騒動
その後立石孫一郎と名前を変えて長州に流れ着き、そこで周防(現在の山口県東部)の第二奇兵隊に入隊した敬之助は、文武両道に優れ人望も厚かった。敬之助は慶応2年(1866) 4月5日隊の内紛から約百人程を引き連れて脱営し、倉敷に向かった。狙いは収賄吏桜井の代官所(現在のアイビースクエア内)で、4月10日未明には一気呵成に攻め落とし火をかけたが、肝心の桜井は広島に赴き不在だった。更に敬之助達は4月12日、先年蛤御門で長州を討った蒔田氏浅尾藩の陣屋を襲撃。陣屋には数十人の留守番が居ただけであえなく焼け落ちた。その後、敬之助達は諸藩の大軍によって追い詰められ離散し、殆どは長州に帰還。敬之助自身も下津井から船に乗って4月24日 周防国熊毛郡浅江(あさなえ)にたどり着くも、第二奇兵隊総督清水美作(みまさか/秀吉の高松城攻めで切腹した清水宗治の子孫)の家臣団により26日に暗殺、その他の者も多くは処刑された。動機はどうあれ、軍規を破り暴動を起こした彼等に安住の地は無かった。敬之助達の行動は、天領の代官所を襲い、親幕の浅尾藩陣屋を焼き討ちにしたという点で、維新回天の先駆けとも言われているが、一方では時代に逆行した過激な尊皇攘夷主義とも、単なる私怨による暴動とも言われ、その評価は分かれるところ。第二次長州征伐が始まったのは敬之助の死から40余日後の6月7日のことだった。
代官所跡