雲林院』(平安時代)

船岡山の東麓、紫野(むらさきの)と呼ばれる一帯にある寺。臨済宗大徳寺の塔頭。現在は狭い敷地にひっそりたたずんでいるが、もとは大徳寺辺りに300m四方ともいわれる広大な敷地があり池を配していたとされる。この辺りは、平安時代には広大な荒野で、第53代淳和天皇(桓武天皇の第三皇子・嵯峨天皇の弟)が、ここに広大な離宮紫野院を造られ、度々行幸され、狩猟や桜・紅葉を楽しまれた。「紫野院」がのちに「雲林亭」となり、仁明天皇が崩御した後、仁明天皇の皇子・常康(つねやす)親王に伝領された。貞観11年(869) 常康親王が出家する折りに、千手観音を祀って「雲林院」という寺にした。平安時代、その規模から「雲林院」は誰もが知る有名な寺。『古今和歌集』『源氏物語』『山槐記』『今昔物語』『伊勢物語』『大鏡』『平家物語』など平安時代の書物に必ずといって登場するほど平安貴族に親しまれ、鎌倉時代まで隆盛を極めた。

紫野院」と現在の「雲林院」が確認できます。

大徳寺前」交差点。

月一度の鍼灸院付き添いの帰り立ち寄りました。下賀茂から北大路通りを西へ少し走ったところです。この交差点のすぐ南に「雲林院」は位置します。平安時代の広大な荒野が偲ばれます。

雲林院

臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭(たっちゅう)。かつて天台宗の大寺院として知られた平安時代の史跡。鎌倉時代が終わった翌年の南朝時代の初め 元弘4年(1324) 敷地を宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が賜り大徳寺を創建したとき雲林院は塔頭となり規模が縮小された。応仁の乱で焼失し、宝永4年(1707)に建て替えられ現在に至っている。現在は観音堂一宇(いちう)が残り、十一面千手観世音菩薩を本尊として、大徳寺開山の大燈国師(だいとうこくし)木像、中興の江西和尚の木像が安置され法燈(ほうとう)を継いでいる。

十一面千手観世音菩薩

第53代淳和天皇

桓武天皇の第七皇子。母は藤原百川(藤原式家の祖・参議藤原宇合の八男)の娘の旅子