平安時代後期、東大寺の学僧であった奝然は天禄3年(972) 法友義蔵(ぎぞう)と兄弟の契りを結び、洛中の北東部にある比叡山(標高848m)に対峙するかのように、洛中の北西部にある愛宕山(標高924m)に大霊場を築くことを誓って、次のような立誓願文(りゅうせいがんもん)を取り交わした。

「・・・何時の日か、京都愛宕山の地に一大伽藍を建立し、釈迦の教えを興隆しよう。このことが、われわれの一生で出来なければ、生まれかわってでもやり、さらには三度生まれかわってでも成し遂げよう。このことを誓う。その証拠に、お互いに一通宛、この誓紙を肌身はなさず持っていることにしよう。・・・」

これが「現当二世結縁状(げんとうにせいけちえんじょう)」として広く知られているもの。「現当」とは、現世と来世、この世とあの世、のことを意味する。時に、奝然35歳、義蔵23歳。こうして奝然は、新寺建立のための本尊を請来するために、生死をかけて、中国(宋)・インドの仏蹟巡礼に旅立つことを決意した。当時は、寛平(かんぴょう)6年(894)の菅原道真の建議による遣唐使派遣の中止以来すでに80年ほど経過し、僧であった奝然にとっては、渡航する機会を得ることは非常に困難だった。しかし辛抱強く待った永観元年(983/義蔵と交わした立誓から丸10年という歳月が流れた) 、ついに宋商の船で出帆できる機会にめぐり合い、渡宋の日を迎えることができた。奝然は義蔵とかわした現当二世結縁状を肌身につけ、弟子の盛算(じょうさん)らをしたがえ入宋(にっそう)の途につくことになった。時に奝然46歳

寛和2年(986)、釈迦如来像は奝然の帰国とともにわが国にもたらされ、翌寛和(かんな)3年(永延元年/987) 奝然は、愛宕山をもって五台山とし、一大伽藍を建てて大清凉寺と称し、栴檀(せんだん)釈迦像を安置したいと請願し、ようやく勅許を得、長年の願いであった五台山清凉寺が建立されようとした。しかし、永延3年(989) 奝然は突如、東大寺別当職に任ぜられた。奝然はその3年後、東大寺別当職を辞したが、肝心の宿願であった五台山清凉寺も、まだ建ってはいなかった長和5年(1016) その願いもむなしく没してしまった。奝然没後その意思は入宋に付き従った弟子の盛算に引き継がれ、同年、師奝然の霊を慰めんと、釈迦像安置の場所を、愛宕山の南、棲霞寺(せいかじ/今日の清凉寺) の地にもとめた。そして勅許を得、華厳宗(江戸時代、徳川家康が浄土宗に帰依していたことから、清凉寺は浄土宗の寺院となった) の五台山清凉寺棲霞寺の一郭に、奝然が宋より請来した釈迦如来立像を安置した釈迦堂として発足することになった。今日、釈迦堂と親しみを込めて呼ばれる「清凉寺」がここに始まった。寛仁3年(1019) 奝然没後3年のことになる。その後、盛算が五台山清凉寺阿闍梨(あじゃり/弟子たちの模範となる高僧の敬称)に補任され、また、釈迦如来立像を祀っていた清凉寺釈迦堂が信仰を集めるに及び、清凉寺棲霞寺にとって代わり、棲霞寺清凉寺の阿弥陀堂となった。

五台山

中華人民共和国山西省忻州市(きんしゅうし)五台県にある古くからの霊山。標高3,058m。仏教では、文殊菩薩(もんじゅぼさつ/智慧の菩薩)の聖地として、古くから信仰を集めている。

天台山

中国浙江(せっこう)省東部にある山。もとは道教の霊山で、575年智顗(ちぎ)天台宗を開いてから同宗の根本道場となった。国清寺(こくせいじ)などがある。

 天竺(てんじく)

インドの東部ビハール州にあるナーランダ大僧院(現在は遺跡)辺り。奝然の天竺巡礼はかなわなかった。