六道珍皇寺の門前の松原通は平安時代の五条大路であり清水寺の参詣道でもあったことから、人の往来が多く、大変賑わった都の目抜き通りであった。その一方でこの通りは鳥辺野(とりべの)へ亡骸を運ぶ際の通路であった。都人たちは、人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川の橋(当初の橋は第52代嵯峨天皇の勅命により架けられたともいわれ、当時の五条橋で現在の松原橋。通りの両側に見事な松並木があったことから五条松原橋とも呼ばれていた。)を渡り、鳥辺野へ至る道筋にあたる六道珍皇寺 へ。この地で野辺の送り法要を行い、最後のお別れの後、隠坊(おんぼう/火葬処理人)により風葬の地である鳥辺山の麓へと運ばれて行った。そんな風習のためか珍皇寺辺りを中世以降「六道の辻 」と称し、他界(冥界)への入り口とされてきた。この六道とは、仏教の説く六道輪廻の死後の世界のことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界をさす。衆生(しゅじょう/一切の生きとし生けるもの)は死後、生前の善悪の業により、六道のいずれかに赴くとされ、珍皇寺はこの六種の冥界への入り口にあたり、「あの世とこの世」の分岐点と信じられてきた。また、閻魔大王に仕えたとされる小野篁(おののたかむら)は、この珍皇寺の庭の井戸を使い、夜每 冥界へ通ったといわれる。

六道の辻 」の石碑

松原橋(旧五条橋)

安土桃山時代、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の造営に当たり、この地に架かっていた橋を平安京の六条坊門小路(現在の五条通)に架け替え五条橋と称した。そのためこの橋の名前は「五条」が外れ、以後、松原橋と呼ばれるようになった。

五条大橋の「牛若丸と弁慶」

なお、歴史的・伝承的に伝説に謳(うた)われる牛若丸と弁慶の決闘「京の五条の橋」は、紫野(むらさきの)『雲林院』西隣にある「ごじょうの橋」を指す。当時鞍馬寺で修行していた牛若丸(源義経)は度々この紫野に狩猟にでかけていたと。

鳥辺野

古来、《西》の化野(あだしの/小倉山の麓の野)、《北》の蓮台野(れんだいの/船岡山から紙屋川に至る谷間一帯の地域) とともに知られていた《東》の風葬地。鳥辺野は、平安時代 、五条坂 から今熊野(いまくまの) あたりの阿弥陀ヶ峰(あみだがみね) の麓一帯をいった。京都市街地から五条通りを走り山科、大津へ向かう途中、東山区の清水寺、大谷本廟近くを通過します。