2月16日に開かれた新型コロナウイルス感染症対策専門家会議。奥から5人目が脇田隆字・国立感染症研究所所長 (C)時事
 

『犬神家の一族』(角川文庫)が好きだ。横溝正史の代表作で、名探偵金田一耕助が活躍する。1976年に市川崑監督、石坂浩二主演で映画化され、大ヒットした。その後、繰り返し映画化・ドラマ化されている。

 この作品は犬神佐兵衛翁の臨終から始まる。佐兵衛翁は裸一貫から犬神財閥を築いた立志伝中の人物だ。

 佐兵衛翁の死後、一族が揃ったところで開封された遺言書には、すべての財産を恩人の孫娘である野々宮珠世に譲ると記されていた。ただし、条件があった。それは珠世が佐兵衛翁の3人の孫のいずれかと結婚することだ。

 その後、財産をめぐって惨劇が繰り広げられる。ネタバレさせないためにこれ以上は書かないが、読み終わると、一連の惨劇は亡き佐兵衛翁の亡霊が犯人に取り憑いて起こさせたような印象を受ける。人は意識しないところで歴史に操られている、ということを考えさせられる作品だ。

 新型コロナウイルスの拡大が止まらず、政府は迷走を続けている。クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の検疫の失敗、遺伝子診断(PCR)の体制整備の遅れ、安倍晋三首相による突然の休校依頼――。

 国内外から批判が噴出している。日本の評価を損ね、東京五輪の開催すら危ぶまれる事態となった。

予算を主導したのは

 一連の動きをみて、私は『犬神家の一族』を思い出す。「亡霊」に操られたかのように、関係者が「ピエロ」を演じているからだ。

「亡霊」とは、帝国陸海軍だ。

「関係者」とは、政府の専門家会議のメンバーである。一体、どういうことだろうか。

 読み解く鍵は、「国立感染症研究所」(感染研)、「東京大学医科学研究所」(医科研)、「国立国際医療研究センター」(医療センター)、そして「東京慈恵会医科大学」(慈恵医大)だ。

 政府が設置した「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」は12名のメンバーで構成されるが(下表)、日本医師会、日本感染症学会、公益を代表する弁護士などを除くと、残る9人中8人が前述の4施設の関係者だ。

 

 座長の脇田隆字氏は感染研の所長、鈴木基氏は感染研感染症疫学センター長、さらに岡部信彦・川崎市健康安全研究所所長は元感染研感染症情報センター長だ。

 河岡義裕氏と武藤香織氏は医科研教授、川名明彦・防衛医科大学教授は医療センターの元国際疾病センター医長で、尾身茂・独立行政法人地域医療機能推進機構理事長は元医系技官だ。

 医療センターを統括するのは厚生労働省で、医系技官が現役出向している。

 さらに、吉田正樹氏は慈恵医大教授で、岡部氏も慈恵医大の同窓だ。

 この4組織と無関係の委員は、押谷仁・東北大学教授だけだ。

 珍しいことに、委員の中に東京大学医学部出身者がいない。政府の医療の専門家会議で、東大医学部卒が皆無なのは極めて珍しい。

 2月13日、このような専門家を迎えて開催されたのが、第8回の新型コロナウイルス感染症対策本部会議だ。この会議には、「新型コロナウイルス(COVID-19)の研究開発について」という資料が提出された(下図)。

 

 この資料によると、緊急対策として総額19.8億円が措置されている。内訳は、感染研に9.8億円、日本医療研究開発機構(AMED)に4.6億円、厚労科研に5.4億円だ。

 資料には、AMEDや厚労科研を介した委託先の名前と金額も書かれている。感染研は上記と合わせて12.2億円、医療センター3.5億円、医科研1.5億円だ。さらに感染研と医科研で9000万円だ。総額18.1億円で、予算の91%を占める。予算を決めるのも、執行するのも同じ人ということになる。

 この資料の目次には、「資料3 健康・医療戦略室提出資料」と書かれている。その「健康・医療戦略室」を仕切るのは、国土交通省OBの和泉洋人室長(首相補佐官)と、医系技官の大坪寛子次長だ。最近、週刊誌を騒がせているコンビが、この予算を主導したことになる。

 大坪氏の経歴も興味深い。慈恵医大を卒業し、感染研を経て、厚労省に就職している。専門家会議のメンバーと背景が被る。

「731部隊」関係者もいた「感染研」

 なぜ、このようなグループが仕切るのだろうか。

 背景には、歴史的な経緯、特に帝国陸海軍が関係する。一体、どういうことだろうか。

 まずは感染研だ。

 その前身は、戦後の1947年に設立された「国立予防衛生研究所」(予研)である。

 予研は戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の指示により、「伝染病研究所」(伝研)から分離・独立した。伝研は現在の医科研だ。

 医科研キャンパスを訪問された方はおわかりだろうが、港区白金台という都内の超一等地に広大なキャンパスを有している。

 キャンパスが広いのは、かつて馬などの家畜を飼っていたからだ。感染症の研究やワクチン・血清治療の開発に利用した。

 戦前、伝研を支えたのは陸軍だった。

 伝研は、1892(明治25)年に北里柴三郎が立ち上げた民間の研究機関だ。1899(明治32)年に内務省所管の「国立伝染病研究所」となり、1906(明治39)年に現在の白金台に移転する。

 伝研の性格を変えたのは、1914(大正3)年の「伝研騒動」だ。内務省から文部省(当時)が統括する東京帝国大学に移管されることが決まったが、北里は、

「感染症対策は大学などの学究機関でなく、行政と連携すべき」

 という考えをもっていたため、猛反対した。

 背景には、当時、東大医学部の実力者だった青山胤通教授との確執や、大隈重信首相率いる「憲政本党」と原敬率いる野党「政友会」の対立などが関係した、と言われている。

 北里は、日本医師会の前身である東京医会や大日本医会のまとめ役になっており、彼らは政友会を支援していた。一方、青山は大学病院の医師を中心とした明治医会の代表を務め、「青山が北里を引きずり降ろした」という噂まであったという。

 腹に据えかねた北里は退職し、職員も従った。困った東大が頼ったのが、当時、陸軍医務局長だった森鴎外だ。

 鴎外は軍医を派遣して伝研を支えた。こうして伝研は陸軍との関係を深めていく。

 戦後、分離された感染研の幹部には、陸軍防疫部隊(関東軍防疫給水部=731部隊)の関係者が名を連ねたことなど、その一例だ。

 専門家会議の委員に感染研と医科研の関係者が名を連ねているのは、このような歴史を受けてのことだ。

 医科研の河岡教授、武藤教授が東大医学部の出身ではなく、今回のメンバーに東大医学部の関係者がいないのも、このような背景が関係する。

軍医療機関と国立病院の関係

 では、医療センターの前身は何だろう。

 新宿区戸山に位置することから想像できるかもしれないが、陸軍の施設だ。1868(明治元)年に設置された「兵隊假病院」に始まり、1936(昭和11)年には「東京第一陸軍病院」と改称された。つまり、帝国陸軍の中核病院だ。

 敗戦で帝国陸軍が解体されると、厚生省に移管され、「国立東京第一病院」に名称が変わった。そして1993年に「国立国際医療センター」となり、2010年に独立法人化され、現在に至る。

 医療センターに限らず、多くの国立病院の前身は陸海軍の医療機関だ。

 たとえば、「国立がん研究センター」の前身は「海軍軍医学校」で、1908(明治41)年に港区芝から中央区築地に移転した。現在の国立がん研究センターの場所だ。

 敗戦が彼らの運命を変える。陸軍省、海軍省は1945年11月30日に廃止され、それぞれ第一、第二復員省となる。両者は1946年6月に統合され、復員庁となり、1947年10月に厚生省に移管される。

 中国残留孤児対策、引揚援護、戦傷病者・戦没者遺族・未帰還者留守家族などの援護を、防衛省でなく厚労省が行っているのは、このような経緯があるからだ。

 では戦後、軍医療機関はどうなっただろう。

 実は、軍医療機関は、戦後の日本医療の救世主だった。

 敗戦直後、日本の病院の大半は戦災によって破壊され、機能不全に陥っていた。GHQは、まず占領軍が使用する優良医療施設を確保し、次いで、日本国民の医療提供体制を考える必要があった。

 手をつけたのは、陸海軍が保有する医療機関の厚生省への移管だった。

 この際、全国146の軍施設が国立病院、国立療養所となったわけだが、注目すべきは、建物も職員も従来のままで診療が継続されたことだ。つまり、病院自体の組織は陸海軍のままで、名称が軍病院から国立病院に変更されただけなのだ。

 この影響が現在も残っている。感染症対策も例外ではない。

慈恵医大につながる「海軍人脈」

 では、慈恵医大はどのように絡むのだろうか。

 キーパーソンは、高木兼寛だ。

 高木は、前出の海軍軍医学校の創設者の1人である。

 高木は薩摩藩出身の医師で、戊辰戦争には薩摩藩の軍医として従軍した。明治維新以降は開成所(東京大学の前身)で英語と西洋医学を学び、その後、薩摩藩によって設立された鹿児島医学校に入学すると、校長のウィリアム・ウィリスに認められ、教授に抜擢される。弱冠21歳のときだ。

 その後、薩摩藩出身者が仕切る海軍に出仕する。

 1875年から1880年まで英国の「セント・トーマス病院医学校」(現在の「キングス・カレッジ・ロンドン」)に留学し、西南戦争時を英国で過ごした。海軍では順調に出世し、海軍軍医の最高位である海軍軍医総監を務めた。

 高木は東京帝国大学医学部、陸軍軍医団がドイツ医学一辺倒で学理・研究を優先していることに反発し、海軍軍医学校には実証主義的色彩が強く、臨床医学を重視する英国医学を取り入れた。

 このような姿勢が、有名な脚気の予防法の確立へと繋がり、脚気対策の確立は日露戦争での間接的勝因といわれるに至る。このあたりを詳しく知りたい方には、吉村昭氏の『白い航跡』(講談社文庫)をお奨めする。

 1881(明治14)年、この高木が中心になって設立したのが、「医術開業試験」の受験予備校(乙種医学校)であった「成医会講習所」だ。これが1903(明治36)年の専門学校令を受けて、日本初の私立医学専門学校として、「東京慈恵医院医学専門学校」となる。現在の慈恵医大だ。

「慈恵」と名付けたのは、明治天皇の皇后の昭憲皇太后だ。薩摩藩出身者が仕切っていたからこそ、アプローチできたのだろう。現在も、「公益社団法人東京慈恵会」の総裁には、皇族が就任することとなっている(現在の総裁は三笠宮家の寬仁親王妃信子殿下)。

 薩摩と言えば海軍だ。このため、慈恵医大は海軍との関係が深い。明治期の海軍軍医総監の大部分は成医会講習所の関係者だ。

 慈恵医大には、この伝統が生きている。国際保健、公衆衛生の分野に多くの人材を輩出している。世界保健機関(WHO)でシニアアドバイザーを務める進藤奈邦子氏は、慈恵医大の卒業生だ。英キングス・カレッジ・ロンドン・セント・トーマス病院などで研修後、感染研に就職。2002年からWHOに勤務している。慈恵医大らしいキャリアだ。

 このように考えると、今回の専門家会議のメンバーは、帝国陸海軍と関わりが深い組織の関係者で占められていることがわかる。(つづく)