2014年10月13日付け東京新聞・こちら特報部の記事だ。山本氏は学生運動に加わっていなかったらノーベル賞の学者になっていただろうと言われる秀才だ。学生運動により大学教授、学者への夢が断たれ、駿台予備校の数学、物理学の教師として生活の糧を得る。今年77歳。

 

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一九六八~六九年に半年間にわたり学生らが東京大安田講堂を占拠し、警察の機動隊と攻防を繰り広げた東大闘争。当時、東大全学共闘会議(全共闘)議長を務めた山本義隆氏(七二)が「私の1960年代」と題して講演した。山本氏は闘争後は活動について口を閉ざしており、講演は初。自身の思う「運動が日本人の世界観に与えた影響」などを語った。   (三沢典丈)

 

講演は今月四日にあり、約百人が来場した。六七年、当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止を掲げた羽田闘争で亡くなった京都大生山崎博昭さんの碑を建てるプロジェクトのイベントの一つ。山本氏はプロジェクト発起人の一人。


山本氏はまず、六O年の東大入学直後は「ほとんどノンポリ。物理学と数学の勉強をやりたかった」と語った。六O年安保闘争でも「集会やデモに行ったり行かなかったりした普通の学生」だった。


同年六月十五日、デモに参加した樺英智子さんが警察隊と衝突して亡くなったと知り、「その衝撃で、のこのこ出てきた」と言う。その後はベトナム戦争の反戦運動などに関わる一方、東大大学院に進学した。


その後、京都大で研究していたが、戻って東大闘争に参加。当初は「縁の下の力持ち」だったが、内部で「党派別のすったもんだ」が起き、「政治オンチ」で党派色のない山本氏が「消去法で議長にさせられた」と明かした。


「全共闘」という言葉については「東大全共闘は自立した個人の集団などと美化されることもあるが、本当の意味で全共闘をつくったのは日本大。学生大衆の正義感と潜在能力を最大限発揮した」と説明した。


六九年一月の安田講堂攻防戦の後、全国の大学に学生運動が拡散した。「活動の周辺にいた諸君がわっと出てきた」と話す。樺さんの事件と同様、攻防戦が他の学生に大きな衝悠を与えたと振り返った。


運動の背景にあった思想的潮流については、「六0年代後半に出てきた三つのシンボルへの疑問」と指摘する。三つとは平和、民主主義、科学技術の進歩。六0年代初頭、「絶対的な正義とされた」と言う。


「ベトナム反戦運動によって(日本が平和であればという)一国平和主義を超えた」。「民主主を守れ」というスローガンは、多数決の優位などにより「社会的弱者を抑圧しかねないと分かってきた」。


科学技術については、「科学は自然ではあり得ない状況をつくって特定の現象を法則化するが、そのままでは技術にならない。技術化する際に公害などが起きたら、責任は科学にもある。そんな責任を省みてこなかった科学のあり方が問われた」と説明した。


一連の学生運動が現代に与えた影響については、「何だったのかと間われると返す言葉がない」と吐露。安倍政権による集団的自衛権の行使容認を踏まえ、「今は戦争前夜みたいな状況。僕らは若いころ、戦前の人に、なぜ日本のファシズムや戦争を止められなかったのかと言ってきたが、同じことを今の二十代、三十代に言われるのではないか」と苦渋の表情を浮かべ、「あと何年生きられるか分からないが、やれることを見つけ、やっていかなりればならない」と結んだ。

 

安田講堂前を埋めつくした学生の総決起集会=1968年11月

 

 


講演する山本義隆・元東京大全共闘議長=4日、東京都品川区で

 

やまもと・ょしたか 1941年、大阪府生まれ。東大、東大大学院で学ぴ、京都大の湯川秀樹研究室で素粒子物理学を研究。「将来のノーベル賞候補」とも称された。68年1月、研修医の待遇改善運動を契機に始まった東大闘争に参加し、同7月、党派や学部を超えて結成された東大金共協議長に就任した。69年1月の安田講堂攻防戦前に地下に潜伏し、同年9月に逮捕され、73年に執行猶予付き有罪判決。その後、予備校教師になり、科学史家として著作を発表し、2003年の「磁力と重力の発見」で毎日出版文化賞、大仏次郎貨を受賞した。