通販生活がすごい。HPに「今週の原発」との原発批判、原発反対の連続インタビューを載せている。2014年9月16日6付けで森松明希子(もりまつ・あきこ)原発賠償関西訴訟原告団代表のインタビューを載せた。4回に分けてお届けする。

 

 

森松明希子(もりまつ・あきこ)1973年、兵庫県生まれ。大阪府大阪市在住。福島県郡山市在住中に東日本大震災に被災。2011年5月から、大阪市へ母子避難。原発賠償関西訴訟原告団代表。

中から見た福島とは

外から見た福島とは大きく異なる。大きく異なる。

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――森松さんご自身は、福島県の郡山市から避難されているんですよね。

森松 2011年の5月に、当時3歳の長男と0歳の長女と一緒に、大阪府に母子だけで避難してきました。
  でも、避難をすると決めて郡山を離れたわけではなかったんです。

 

――と言うと?

森松 震災で住んでいたマンションの給水タンクが壊れ、家中が浸水し、家財道具も全てだめになってしまいました。着の身着のまま避難所へ身を寄せたんですが、何とか一家四人の命は助かったので、郡山で生活を再建しようとしていました。
  たまたま、2011年のゴールデンウイークに、子どもを連れて関西の私の実家に帰省したのですが、そこで見たテレビの報道に、すごく衝撃を受けたんです。それを見てようやく、実家の家族の言うことが腑に落ちたと言うか。

 

――何と言われていたんですか。

森松 震災後、実家の家族はみんな、「早く福島を出なさい」と言っていたんです。
  でも私は、この人たちは何を言うんだろうと思って、あまり真面目に取り合っていませんでした。被ばくに対する漠然とした恐怖があったとはいえ、その報道を見るまでは避難しようとは思ったこともなかったのですから。

 

――具体的には、どういう内容の報道だったのですか?

森松 原子力施設で起きた事故の深刻度を示す国際原子力事象評価尺度(INES)で、福島第一原発の事故は、最も深刻度の高いレベル7とされたという報道でした。同じくレベル7と評価されたチェルノブイリでは、事故後20年以上が経過しても健康被害が絶えないことなども、その報道で始めて知りました。
  当時、福島県内で報道されることと言えば、どこの学校で授業が再開されましたとか、流通が元に戻ってきましたとか、復興に関するものが圧倒的に多かったんです。原発事故に関する報道で、しかも危険を知らせる報道なんて、少なくとも私は見たことがなかった。
  福島第一原発事故の深刻度を伝えるその報道を見て、「もう福島には帰れない」と思いました。
  郡山で生活を再建しようと思っていたのは事実なんです。一方で、郡山での生活に強烈な違和感があったのも確か。

 

――どんな違和感だったんですか。

森松 原発事故後の4月、長男は幼稚園に入園したのですが、制服を着せることができたのは入園式の1日だけでした。入園式の翌日からは、長そで長ズボンの服を着用するようにと言われたのです。
  それから、数日後には幼稚園からマスクが配られ、外出時にはマスクを着用させるようになりました。外遊びもさせられないので、週末になると、ブランコやすべり台があるだけの普通の公園で1時間ほど子どもを遊ばせるためだけに車で県外まで行っていました。
  娘は、できる限り外に出さないようにしました。徒歩5分の距離にある幼稚園に息子を送迎する時も、家に一人で残していました。寝返りができるようになった娘に、「寝返りしないでね」と言い聞かせ、窒息させないようにと周りをきれいに片づけて、まだ0歳の娘を一人で自宅に残して、大急ぎで息子の送迎をしていました。
  もう、何が普通で、何が普通でないのかが、分からなくなっていました。子どもを被ばくさせないための暮しにはいろんな制約があり……。「一体いつまでこんな暮しが続くんだろう」。そんな先行きの見えない不安がありながらも、郡山で生活を再建するために、必死でした。

 

――それでも、避難をしようとは思わなかったのですね。

森松 そこが、福島を中から見るか、外から見るかの圧倒的な違いだと思うのです。福島県内で生活していると、日頃どれだけ苦労して放射能と闘っていても、「避難しよう」とまでは、あまり思えないんです。放射能があることは分かっていても、他の地域と比べてどれだけ汚染されているのか、というような情報が手に入りにくいからです。
  客観的な情報が少ない中で生活を続けるうち、放射能に汚染された地域で暮すということに折り合いをつけざるをえなくなる。それは、簡単に言えば「慣れ」です。目に見えない、触ることもできない放射線の中で暮すということは、そういうことなのです。

 

――だからこそ、「外から見た福島」は衝撃的だったのですね。

森松 はい。まさに「私が知りたかったのはこの情報だ」と思いました。今まで抱いていた違和感に、はっきりとした答えが出された感じだったんです。
  その報道を見て、その日のうちに郡山の夫に電話し、母子避難することを決めました。最初、夫は驚いてはいましたが、わが子を守るためならばと、反対はしませんでした。
  その日から、母子避難生活が始まりました。