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2011年5月20日、1千人弱が犠牲になった宮城県名取市からリポートする李氏(提供/フェニックステレビ李氏)




マックニール 僕は地震が起きた時、妊娠中の奥さんと品川駅にいました。駅の天井が落ちるかなと心配するくらい揺れて、揺れが終わった後は電話がつながらなかったでしょう? 彼女はお母さんにも連絡が取れないものだから、不安でヒステリックになってしまった。


寒かったし、まずは安全な場所に行かないと…と思って、品川から4㎞ぐらい歩いて有楽町にある外国人特派員協会に避難しました。その時、ふたつの気持ちがあったんです。家族のことを心配する気持ちと、これほどの大地震だからこれから忙しくなるぞ…と。


僕は『エコノミスト』『インデペンデント』、ふたつの媒体で書いています。地震の後、すぐに電話がかかってきて「誰か送ろうか?」と言われたけど、「いいよ、ひとりでやる」と答えて、地震の翌朝、クルマで東北に向かいました。


まず、いわき市に入って1泊して、原発を迂回(うかい)しながら宮城の南三陸に入ったんですけど、そこで目にしたのは見たこともない光景。どうやって記事を書けばいいか困惑しました。最初に感じたのは「沈黙」。本当に音がない、カラスの鳴き声だけ。それが一番印象に残っています。


山あいから海に下りていく途中、破壊された家の下に遺体を見つけたんです。カメラマンは撮るべきかどうか迷っていた…。その後、海沿いから戻る時に仙台から来たという人たちに会った。「何を探しに来たんですか?」と尋ねたら、彼らは「ウチ」と。おじいちゃんやおばあちゃんがここに住んでいる…と。僕たちは彼らに「街は壊滅している」と言うことができず、そのまま別れたことを今でも覚えています。


マッカリー 僕は地震の10日後に現地に入りました。宮古、釜石、陸前高田、南相馬、仙台と回る長い取材だったんですけど、一番覚えているのは陸前高田の瓦礫(がれき)です。「ニオイ」がすごかった。瓦礫と、海から打ち上げられて死んだ魚のニオイとか…。今でも思い出せば鼻先によみがえる気がします。


お寺や学校などの避難所に行き、子供を亡くした方などを取材していたんですけど、編集長から「明るい話は全くないと思うけど、立ち上がっている人を見つけて、何かポジティブな記事を書いてほしい」と言われました。


それで、醤油(しょうゆ)メーカーの若い社長さんが津波で全てを流されながらも醤油造りを諦めていない姿や、両親を亡くした子供たちの面倒を見ているおばあちゃんとか、高齢者のために料理を作っている姉妹などを取材しました。


これらの記事に対して、母国の読者から「被災者のために私たちにできることはないか」という声が編集部に数多く寄せられ、中には募金を送ってきた人までいたそうです。自分の書いた記事が多くの共感を呼んだことは、ジャーナリストとしてとても嬉しいことでした。


マックニール 被災地を含めた日本の人たちが助け合って困難に立ち向かう姿には、イギリスでも多くの称賛の声が上がっていたよね。


一方で、原発の記事に関しては、「この記者は重要な事実を隠していて、実際はもっと深刻な状況なんじゃないか」という反応や、逆に「実際より大げさに危機を煽(あお)っているんじゃないか」という声もあった。原発に対するスタンスの違いによって、同じ記事でも受け止め方が180度違うんだなと思いました。