5/14~29まで旧東欧(ドイツのベルリン、ライプチヒ、ドレスデン、チェコのプラハ、ハンガリーのブダペスト)を訪れた。以下、旅行記をお届けする。



  私にとってプラハには特別の思いがある。私は学生時から40年以上にわたり評論家・加藤周一(1919~2008)さんを追い続けている。1967年から始まったチェコスロバキアの民主化の流れ、プラハの春、は翌年にも拡大の一途を辿っていた。チェコスロバキアの民主化の行き過ぎを懸念していたソ連は1968年8月21日未明、ワルシヤワ条約機構軍とともにチェコスロバキアに軍事介入した。加藤さんはこのときザルツブルグ音楽祭を愉しむため、ザルツブルグに滞在していた。加藤さんこの翌日、朝食を食べるためにホテルのレストランにいき、異様な雰囲気に気づく。周りの人に尋ねて前日未明にソ連軍がチェコスロバキアに軍事介入したことを知らされる。加藤さんはこの歴史的事件の成り行き、状況をウイーンで把握しようとザルツブルグ音楽祭をキャンセルして車で当時自宅のあったウイーンに戻るのである。



  横浜・青葉台暮らし-va-tsurafu
  横浜・青葉台暮らし-ヴァーツラフ広場
   1968年8月、ソ連軍の戦車が埋め尽くした           ソ連の軍事侵入から45年後、私は2013年5月20日

   プラハのヴァ―ツラフ広場                    プラハのヴァ―ツラフ広場に立った




  加藤さんはこの年8月の初旬に車を運転しチェコスロバキアを一周していた。その時、加藤さんの会ったチェコスロバキアの人々は楽観的で、民主化のさらなる進展に夢と希望を抱いていた。ソ連の軍事介入を予測する人はだれも居なかった。加藤さんはウイーンに戻り、ソ連の軍事介入の背景とその後の見通しを分析する。ウイーンで見聞きしたソ連の軍事介入から二週間の情況を9月に書き上げ、その論文を月刊誌「世界」(岩波書店)1968年11月号に「言葉と戦車」として発表するのである。加藤さんの書いた多くの評論、論文の中でこの「言葉と戦車」は名論文の一つに入るだろう。

 

「言葉と戦車」の中の言葉だ。


  『言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、一台の戦車さえ破壊することはできない。戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえもできる。しかし、プラハの街頭における戦車の存在そのものを正当化することはできないだろう。自分自身を正当化するためには、どうしても言葉を必要とする。すなわち相手を沈黙させるのではなく、反駁しなければならない。言葉に対するには言葉をもってしなければならない。1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に対峙していたのは、圧倒的に無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。その場で勝負のつくはずはなかった』



  横浜・青葉台暮らし-katoushuuichi   横浜・青葉台暮らし-kotobatosennsah

  加藤周一(1919~2008)  NHKテレビ「私にとって     単行本の加藤周一書「言葉と戦車」(筑摩書房)

   の20世紀」2000年3,4月より。                 1969年9月2日栄松堂(東京駅)で購入との書き込みあり       



  加藤さんは1989年の旧東欧、1991年のソ連崩壊の後、「プラハの春はソ連の軍事介入で鎮圧されたが、旧東欧の社会主義は、時期は予測できなかったが、いずれ崩壊すると予想していた。ソ連の崩壊は全く予想できなかった」([私の見た20世紀」岩波書店)と回顧している。ソ連のチェコスロバキア介入は大学生となったばかりの私には衝撃的かつ世界の出来事に目を向けさせる事件であった。この事件が加藤さんを40年以上にわたり追い続けるきっかけともなった。いずれチェコスロバキアを、プラハを、ヴァ―ツラフ広場を、訪れたいという気持ちを40年以上持ち続けた。そして軍事介入から45年後の2013年5月20日私はプラハのヴァ―ツラフ広場に立った。




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      国立博物館からヴァ―ツラフ広場を見る           ヴァ―ツラフ広場から国立博物館を見る