加藤周一(1919~2008)さんは1940年に東京帝国大学医学部に入するが、1943年に戦争により繰り上げ卒業。すぐに東大附属病院医局 佐々内科に副手として勤務する傍ら、血液学を研究する。1950年に第3回のフランス政府留学生募集に応募し半給費留学生として10月に医学研究のためにフランスへ留学する。渡航費、生活費が支給され、学費が免除となる全給費生に前年森有正が、この年は三宅徳嘉が選ばれた。加藤さんは渡航費、生活費は自弁で、学費が免除される半給費生としてフランス留学に向かった。

本来は1年間の留学が3に間になり、このフランス留学がその後の加藤さんの人生に決定的な影響を与えた。フランス留学で日本を経つ前に決めていた許婚との婚約を帰国後に破棄した。フランス留学中にオーストリア女性と恋におち、彼女との結婚を決めたためだ。またフランス留学を終え日本に戻ってから医学ではなく文学で生計を立てることを選択する。


『は病弱であったことと、病院には若干の医者は必要だったので、徴兵を免れた』 (「私にとっての20世紀」岩波書店)



横浜・青葉台暮らし-TOUDAI  
1936年に建てられた東京帝国大学医学部本館、現在は東京大学医学部2号館。加藤さんの親友の多くは戦地に駆り出され亡くなった。生きて帰ってきた友も戦争により人格が破壊され、戦争前の友ではなかった。

   

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加藤さんは限定版の詩集を5冊書いた。「さくら横丁」はこの薔薇譜に載っている。この詩に別宮貞雄と中田喜直が曲をつけた。私は別宮貞雄の曲を好む。
 

『死んだ友達がいま生きていたら、いわないだろうということをいったり、いうに違いないことを黙っているのは、少なくとも私がしやべることが可能なかぎりにおいては、こだわりなしにはできません。要するに彼らが決していわないであろうことをいい、彼らが黙っていなかったろうことを沈黙したりすることは、したくない気持ちが私の中にある』(「私にとっての20世紀」岩波書店)




横浜・青葉台暮らし-kinndai nochouoku
加藤さんは戦前に戦争を賛美した日本浪漫派、京都学派の知識人を激しく批した。

 


『学校の同級生や友人はかなり大勢死んだ。自分はやっと生き延びたけれど、別に理由があって生き延びたのではなく偶然です。なんの理由もなく、私の友人は死んでしまった。私の親友を殺す理由、殺しを正当化するような理由はそう簡単に見つけることはできない。だから私は、戦争反対ということになるの
です』(「私にとっての20世紀」)岩波書店