女優・藤純子が1972年に引退してから40年、彼女のやくざ映画が懐かしい。彼女のやくざ映画は作られなくなったが、やくざ映画に共感する日本人の心情は今も変わらないだろう。何故、やくざ映画が多くの日本人の心を打つのか? それはやくざ社会の心理と論理が日本社会の心理と論理を見事に体現しているからだと思う。


 やくざ映画のクライマックス場面だ。組同士の抗争で組長(親分)の命を取られた組員(子分)が通夜の席に集まる。組長に次ぐナンバー2の若頭が親分の遺影を前に「親分。親分のかたきは必ずとります」とつぶやき、特定の組員・子分に目配せをする。目の会った子分は静かに頭を下げる。その子分は自分に与えられた使命が何か場の雰囲気から導き出す。これで謀議がすべて完了する。そこには明確な指示も命令もない。しばらくの後、その子分は自分に与えられた任務と責務を果たす。警察に捕まっても「全て私の一存」との態度を貫き、組織、組員に迷惑をかけることは一切しない。

 


 

 

 日本の社会、組織ではトップが命令せずに、「そこまで俺に言わすな」、「俺の気持ちを忖度しろ」という「阿吽の呼吸」により物事が決定されることがあるだろう。場の雰囲気から出席者は与えられ、求められている役割を察し、果たせということだ。トップが指示、命令を出さなくても下の者が上の者の意向を汲み進んで、時には喜んで行動する。このような命令、決定過程はトップの責任を曖昧にし、後の法的責任の追及を免れる効果が得られる。


 このような上下関係が出来上がるにはその組織内の上(親分)と下(子分)との間で普段から上は下に恩義を与え、下は上に義理を感じるという関係を築いておかねばならない。やくざ社会で子分は親分に実の親以上の恩義受けていて、親分に何かがあれば自分の命をも差し出し、日頃の恩義に報いようという関係が築かれている。

 


 

 
横浜・青葉台暮らし-hibotann  
 
1968年封切りの藤純子主演・緋牡丹博徒シリーズの第1作のポスター