こんにちは星
美絵ですニコニコ



自分が生きてきた道のり。



どんなことがあって

どんなことを感じて

生きてきたのか。





色んな人が書いてるのを見て

わたしもずっと前から書いてみたくて

なかなか動けなかったけど、



『やっぱり書きたい!!』

と思ったので、

少しずつでも書いていこうと思いますキラキラ






題して!



『わたしの宝物』

My history - since1984 -





今日は『第1章』爆笑



では、

始まり始まり~ルンルン





幼児期



わたしは、

福井県の平野部の

周りが田んぼと畑だらけの

ド田舎で産まれ育ちました。



父は左官業の自営業。

わたしが幼い頃は

従業員が2人くらいいたと思う。



母は会社勤めの事務員。

わたしが生後数ヶ月から仕事に復帰し

わたしは保育園に通っていました。



父方の祖母も元気で、

共働きで忙しい両親とは

なかなか一緒に居る時間がなかったけど、

おばあちゃんがいつも家に居てくれたので

すごく安心感をもらっていた。



9つ上の兄と7つ上の姉がいて

わたしは年の離れた末っ子。



『作る予定のなかった子』

と、昔はよく言われてました。



離婚で出戻った叔父も

同居していて、7人家族。



兄姉も含めて

周りは大人ばかりで育ちました。



.



5歳の時、

家族に冗談で

海に置いてけぼりにされたことがあって。



家族で行った春頃の三国の海。



海辺で遊んでいて、

ふと気がついて振り返ると

家族みんなが乗った車が

遠ざかっていく……



信じられませんでした。



どうすることも出来ず

フリーズした記憶がある。



恐怖と共に泣きじゃくっていると、

車が停り、笑いながら降りてくる家族。



恐いのやら悲しいのやら

ぐちゃぐちゃの感情の先には

拗ねました。




アルバムにも残っています。



(この事は、去年2022年8月に

あけさんの継続コンサルを受けるまでは、

『そんなこともあったよね~』くらいで

笑い事で済ませていたけど、苦い思い出でした。

でも、パンドラの箱のように

自分の中に眠っていたんです悲しい 


→『第3章(自分と向き合う)』で

詳しく書こうと思ってます。)





家族に置いてけぼりにされたショックで

絶対的な家族の(特に母親の)

愛を見失いました。



そこから無意識に

家族(他人)との間に一線を引き、



『コイツらに絶対“腹”を見せるもんか』

と言わんばかりに

虚勢を張る生き方になっていきました。



兄と姉にバカにされていると

感じることがよくあって。



大人に囲まれていたこともあって

バカにされたくなくて、

背伸びをしたり、



『みーちゃんは泣き虫』

って言われるのが嫌で、

泣くのも我慢するようになった。



家族の中に居ても

ふと気がつくと

自分だけ蚊帳の外にいるような

疎外感を感じていたな~と思います。




小学生時代



家族の絶対的な愛を見失った悲しみは

無意識に心の奥の奥の奥にしまいこんで、



いつもは

普通に元気な子供でした立ち上がる



小学生の頃には、

同じ地区の男子と遊ぶことも多くて

鬼ごっこか何かしている時に

垣根から飛び降りようとして



その時に履いてたのが

タイトスカートで

裾が垣根に引っかかり

顔面着地して鼻の骨に

ヒビが入るってことがあったくらい

お転婆でした泣き笑い



でもいつも『誰か』と

一緒に居たなと思います。



『寂しさを感じたくないから』

という理由で一人で居たくないと

明確に認識していたわけじゃないけど、



放課後、いつも誰かと遊ぶ約束を

わたしからしてた。



同級生がダメなら

同じ地区の子。



でもいつもいつも

同じ子と遊ぶのが嫌で、

(嫌がられるのが

無意識に恐かったのかもしれない)



同級生に断られる理由が

『習い事』だったから、

『一緒に居たい』っていう理由で

習字とバスケを習い始めました。



.



弱い自分は愛されない

『凄い!』と思われないと

愛されないと勘違いしていたから、



学校内でも

凄いと思われたくて

児童会長になったり、



お金を持っていることが凄いことで、

みんなに凄いと言われたいがために

親の財布からお金を盗んだり、



自分は強いんだ!と誇示したくて

大人しい子をいじめたり

下に見たりしてた。



どこまでも強がっていた

小学生時代だった滝汗



.



勉強は小5で分からなくなった笑い泣き



小5~高校までの勉強は、

『理解している』のではなく

『なんとなくこんな感じ?』的な

ニュアンスでやってたな。笑



体力も無くて、

帰り道に眠くなって

真っ直ぐな道で

目を瞑って帰ったり爆笑



朝の集団登校も

班長なのに遅刻したり、

先に行ってもらって

同居してた叔父さんに

車で送ってもらったりしてた。



.



小4くらいの時に

地区の神社で認知症のおじいさんに

胸やお股を触られるってことがあった。



おじいさんの股の間に座る形で

後ろから触られてて、

その様子を

同じ地区の年上男子数人に見られてた。



両親のH現場を目撃したりしてたから

なんとなく『大人の行為』という認識はあって、



その時わたしが感じていたのは

『優越感』だった。



どこまでも『凄いと思われたい』

と思っていた小学生時代でした。





中学時代



中学校は

同地区の小学校4校が集まった学校。



その4校の中でも

わたしの小学校は児童数も極少で

クラスも1クラスしかない小学校。



中学に入ると1学年5クラスあって

同じクラスに同じ小学校の子は数人な状態。



狭い世界から

一気に広い世界になった。



部活は

『知ってる人が居る部活がいい』

と思って、

小学校の時のミニバスの先輩がいる

ソフトボール部に入った。



ソフト部が人気だったのか

同級生は15人。



1つ上の先輩は3人だったから、

1年生の後半には

レギュラー争いが始まった。



小学校からミニバスを

習ったりしてはいたけど、

基本的に体育は得意じゃない。

走るのも激遅笑い泣き



他の子たちは

わたしより上手い子ばかりだったから

レギュラーなんて、はなから諦めてた。



キャッチャーに憧れがあって

やりたかったけど、

体格も能力も最適な子が居たから

『やりたいです!』とも言えなかった悲しい



.



学校の廊下で先輩とすれ違う時には

お辞儀をしないといけない

暗黙のルールがある中学校だった。



『それをしないと目をつけられる』

そんな風習があった。



上下関係には厳しい中学校で、

ソフト部の先輩は優しかったから

気さくに話しかけてたら

『態度デカい』って言われた笑い泣き


(その後もどこに行っても『態度デカい』と言われ、

就職して新入社員でも『ずっと働いてるみたい』

って言われ続けた😂)



.



ソフト部は日焼け止め禁止。

夏は黒こげに焼けてた。



短髪の黒こげ。

女の子らしさゼロ。



みんなに愛される

キラキラ女子が嫌いだった。



表立って嫌悪感を

顕にすることはなかったけど、



吹奏楽部、ツインテール、

オシャレしてる女子が

眩しすぎて羨ましすぎて

素直に『いいな♡』って思えなかった。



無意識に無自覚に

自分と他人を比べて、

ものすごく劣等感を感じてた。



その劣等感から

無価値感を感じて苦しくて、

夜な夜な泣く日も多々あった。



『こんなに苦しいなら

死んだ方がマシ』と

自殺願望が芽生えるくらい

落ち込んで、泣いて、泣いて。



泣いて、寝落ちして、

朝起きるとスッキリ忘れてる。



自分でも何故そうなるのか

明確に分かっていなかったから

謎だった。



苦しかったのに

親に相談するっていうことも

考えたこともなかった。



孤独で、苦しくて、つらい経験。



.



職業体験みたいなやつで

車椅子を押す体験をした時に

『ありがとう』と

言われたことが嬉しくて、



将来は医療福祉系がいいな~

と漠然と思っていた。



現実は

今で精一杯すぎて

未来を描く余裕もなかったけど。



担任に進路志望を伝えて

介護とか医療福祉系がいいと思ってる

と伝えた時、新任1年目の担任に



『お前なんかに介護が

できるわけがない』

と言われてムカついて

泣きまくった。



その時

『絶対見返してやる!!!』

って思った記憶がある。



.



劣等感、無価値感にまみれた

中学時代だった。





高校時代



高校を選んだ理由は

『お姉ちゃんが通ってたから』。



中学の部活もそうだけど、

わたしは内容で選ぶのではなく

人で選ぶ人だったらしい🤭



その理由は

安心感が欲しかったんだと思う。



高校でもソフト部に入ろうと決めてた。



“絶対全員部活すること”って

決められてた訳じゃなかった気がするけど、

何故か上手くもないソフトボールは

続けたいと思ってた。



ポジション決めで、

中学で『やりたい』と言えなかった

キャッチャーをやりたいと言うことが出来た。



肩も弱いし(ボールを遠くまで投げれない)、

反射神経もそこまで良くもないけど、

配球(ボールのコースの投げ分けの指示)の

センスを買われたのと、



バッテリーを組んでたピッチャーの子が

コントロールがバツグンで、

1年生バッテリーながら

試合に出させてもらってた。



1年生の時に顧問の先生から

『お前の代ではお前がキャプテンだ』

と言われてた。



試合に応援に来てくれたお母さんに

『ありがとう』と言ってるのを見て

『コイツだ』と思ってくれたらしいけど、



先生に信頼されてるみたいで

凄く嬉しかった。



その言葉が、

『わたしなんか…』と思ってたわたしが

『頑張ろう!』と思える力になったのは

間違いない。



キャッチャーの配球も

勉強と一緒で『感覚』でやってた。



『この人はコッチが苦手な気がする』

『今のこのタイミングならコッチが嫌がるな』



そんなことが

“なんとなく”分かる。



その感覚通りにすると打ち取れるんだけど、

頭(思考)で考え出すとダメなパターンが多かった笑い泣き

(普通のキャッチャーは頭脳戦です😂)



この時からわたしは

感覚でやると上手くいく人だったんだな🤭



1個上の先輩はみんな気さくで

1、2年みんな仲が良かった。



弱小チームだったけど、

『ソフトボールで町おこししてほしい』

と群馬から派遣された有望な先生の元、



技術はもちろん精神的にも

チームワーク的にも

『もっと良くなるように!』

とみんな向上心をもってやっていた。



この頃から

自己成長、自己啓発的なことが

好きになった。



2年生後半

自分たちの代になって

キャプテンになった。



身の引き締まる思いで

頑張っていたけど、

その頃から

疎外感を感じるようになった。



『もっと、より良く!』

と向上心をもつ子と、

そうじゃない子がいた。



そうじゃない子が

場を乱すこともあったから

自主的にミーティングをすることも

何度もあって。



そうじゃない子から見たら

わたしは悪役。



キャプテンにはなったけど、

自分に自信があったわけでもなく

劣等感や無価値感は残ったまま。



『こんなわたしより

あの子に(そうじゃない子)

ついてく子ばかりなんじゃないか…』



好かれてる感覚、

認められてる感覚もなかったから、

みんなが離れていく感じがして

恐かった。



わたしの前では良い顔してるけど、

裏では何を言われてるか分からない

という不信感もあった。



それは、幼い頃から

ニコニコと笑顔を振りまき

良い人をやってる母の姿を見てきたから。



そんな母を見てわたしは

『なんで腹で思ってることと

違うこと言ってるんだろう?』

と幼ながらに思っていたから。



『女は裏表が激しい』

そんな思い込みもあったから、

チーム内でも不信感を感じてしまった。



キャプテンになってから

そういうことも増えたけど、

どうしたらいいかも分からず

気にしないようにしていたら

目眩、立ちくらみが頻発するようになった。



そんな症状が出てしんどかったけど

一番気持ちが楽になったのは

顧問の先生が1対1で

話をしてくれたことだった。



今となっては

何を言われたのか

ぜーーーんぜん覚えてないけど笑い泣き



でもあの時間が

わたしを緩めてくれたし

支えてくれたのは

間違いない。



書いてて思ったけど、

わたし『そうじゃない子』のこと

呪ってるのかもしれない。

今もまだ無意識に。



そしてそれは

『そうじゃない子』に留まらず

『女』に対して凄く思ってるのかも。



楽しくてしょうがなかった部活。



それをぶち壊された怒り。



『お前さえ居なければ』



そんな想いが

まだわたしの中に残ってる悲しい



寄り添って、癒してあげよう悲しいピンクハート



→ 寄り添ったら、根っこは母親でした



.



クラスでは、

仲のいいクラスメイトも居たし

楽しい時間を過ごしてた。



でもやっぱり

友達が多い子、人気がある子が

凄い!と思ってたし、



人を見て優劣をつけてたし、

上に見たり下に見たりしてたなと思う。



上に見てる子と居ると

劣等感を感じるけど、



『そんな子と一緒に居るわたし凄いでしょ』

とでも言わんばかりに

優越感も感じてた。



友達を中身で選ばず、

外側(凄いかどうか)で選んでた高校時代。





専門学校時代



高校の進路志望で

看護師を目指してた。



『目指してた』

というと語弊があるな。



なんとなく

『なれたらいいなぁ~』

くらいで思ってて、

本気でなりたい‼️ではなかった。



勉強も訳が分からなかったし

看護科のある大学を受けたものの

見事失敗。



『悔しい』とかもなくて

『やっぱりな』って感じだった。



他のクラスメイトは

次々と進路が決まっていく中、

担任の先生から

『介護はどうだ?』

と言われた。



自分だけ

進路が決まらない焦りもあって

『進路が決まればどこでもいい』くらいで

介護福祉士の資格が取れる

医療福祉専門学校に進路を決めた。



高校ではソフト、ソフト、ソフトで

恋愛は妄想だけだったから←笑

彼氏が欲しい!と思ってたラブラブ



母親にそんな話をした時に

『何かに集中して頑張ってる人は

キラキラ輝いてるから、

何かに集中して頑張ってると

彼氏もできるよ』

と言われて、



納得できたから素直に聞いて

『介護の勉強頑張ろ!!』

って思って入学した。



知ってる人が

全く居ない世界に飛び込むことになり、

『まずは友達作ろ!!』

と意気込んで初日を迎えたのを覚えてる。



初日で泊まりの

オリエンテーションが始まる前に

学校の外に立っていた女の子が

可愛くて声を掛け、



数日間のオリエンテーションで

わたし合わせて4人の女子で

仲良くなった。



学校も放課後も

いつも4人で居た。



波長も合って

めちゃめちゃ楽しい空気感だった。



介護の勉強は、

頑張らなくても楽しくて

スルスル頭に入っていった。



仲良し4人組の内の1人が

いつも一緒にふざけてた男子がいた。



その男子と一緒に遊ぶこともあって、

その男子とつるんでたのが

今の旦那さんだった。



旦那さんも昔ミニバスをやってて

しかも、わたしの同級生と一緒に

プレーしたことがあるとか共通点も分かって、

すぐに親近感を持った。



学校も放課後も休みの日も

この6人で居ることが増えて

この6人が『いつものメンバー』

になっていった。



楽しくてしょうがなかった。



車もあって

行動範囲も時間も自由で、

高校では体験できなかったことを

たくさんやった。



高校の時に

国体で仲良くなった子に誘われて

社会人のソフトボールチームにも入ってた。



毎日が充実してた。



そんなある日、

今の旦那さんから告白された。



母親に言われた

『何かに集中してる人は輝いてるから…』

の話が、本当だ!と思った。



最初は恋愛感情がないし迷ったけど、

波長が合うとは感じてた。



『○○と付き合ったら、何がある?』

って聞いた時に『癒される』って返事がきて



自分で言うのか!🤣と笑いながらも

この空気感がいいな♡と思って付き合い始めた。



いつもわたしを優先してくれた。

いつもわたしを喜ばせようとしてくれた。



そんな姿にわたしもいつの間にか

大好きになっていた。



3ヶ月が経つ頃には

周りから『老夫婦みたい』と言われるほど

一緒に居るのが当たり前な空気感になってた。



大好き過ぎるし、

一緒に居ることが安心にもなってた。



めちゃめちゃ楽しすぎて

充実した専門学校時代だったけど、



2年生の20歳の誕生日🎂

旦那さんの『心の浮気』が発覚したガーン



旦那さんは

自分の不誠実さにいたたまれなくなって

別れを切り出した。



でもやっぱり

わたしが旦那さんと一緒に居たすぎて

別れてた期間は2週間くらいで終了。



『心の浮気』のことは冗談のように流して、

モトサヤに戻ってのお付き合いを再開しました。





独身社会人時代




2年制の専門学校を修了し、

『お給料がいい』と噂の

特別養護老人ホームに入社。



早出、日勤、遅出、夜勤の

シフト制。



1ヶ月も経たないうちに

『なんか、松永さん(旧姓)って

ずっとここで働いてる古株みたいだよね~笑』

って言われるようになった。



昔から老け顔で

高校生の時に、

平日に駅前に遊びに行くと

お店の人に

『今日はお仕事お休みなんですか~?』

って声を掛けられるくらいだった笑い泣き



しかも何故か

『肝が据わってる』『飄々としてる』

ように見えるらしかった。



高校時代から言われてたことだったから

『わたしって、そうなんだ』

と思ってたけど、社会人一年目

ある先輩にいじめられた。



わたしが関わった業務で

やってなかったことを

毎日のようにロッカーに

デカデカとメモ紙が貼ってあった。



わたし的には

『細かい人なんだなー』くらいで、

いじめられてる感覚は無かった。



でも他の先輩に

『いじめられてるみたいやけど、大丈夫??』

って心配されて、

いじめられてることに気づいたくらい笑い泣き



でも虐めてくる先輩に

何も言わせないくらい

ちゃんと仕事しよう!

って思って意欲に繋がってた。



あとあとその先輩にも

可愛がってもらえるようになって、

人間関係はほぼ良好だった。



ソフトボールの社会人チームの練習も

週に3回、夜にあって、

『より良くなるために!』と

向上心を持った人たちと

練習の後、夜な夜な語り合った。



練習場の駐車場で

タバコと飲み物を手に、

『この時間がいつまでも続けばいいのに』

と思うくらい、

楽しい時間を過ごしてた。



そのチームメイトで

親友と呼べる友達ができた。



その親友は

わたしの憧れそのものだった。

わたしの欲しいもの全て持っている人。



その親友の紹介で美顔器を買った。

『この子みたいになりたい!!』

そんな期待もあった。



その美顔器の会社の考え方や

『より魅力的な人になるために』

みたいなセミナーや活動に惹かれて

販売活動をしていた。



いずれは本業にしたい!

と思っていたから、

結婚を機に介護の仕事は辞めた。



.



毎日のように会っていた旦那さんと

なかなか会えなくても寂しくなかった。



けど、

旦那さんと付き合って何年も経った頃、

旦那さんに甘えた時に

旦那さんの嫌そうな態度を見て

甘えるのをやめた。



いつも長電話してたけど、

とある日『その話、いつまで続く?🥱』

って言われたことにぶちギレて

旦那さんにわたしから話をすることをやめた。



愛されなくなることが恐かった。



愛されていたかったから、

ずっと一緒に居たかったから、

我慢すること、隠すことを選んだ。



自分のことを

周りと比べて劣ってると思ってたし、

『こんなわたしを好きになってくれるのは

旦那さんしかいないだろうな』

と思ってたから、



『このわたしが嫌なら別れる‼️』

とかにもならなかった😂



我慢も隠すことも

許容範囲だった。



それで愛されるなら

それでいいとさえ思っていた。



だけど、時たまお目見えする

旦那さんの短気な部分。



怒ると物にあたる。

怒ると手がつけれない感じ。



それが嫌だった。



わたしは、できるだけ

波風立てたくない人だったから、



その時たま見る姿を思って

結婚を決める時も

『本当にこの人でいいのか』

迷った部分でもあった。



でも好きすぎた。

大好きすぎた。



離れることなんて考えられなくて、

『このまま行けば結婚するんだろうな』

と、なんとなく思っていた。



その短気な所は

いつもいつもじゃないし、

わたしが見て見ぬふりすれば

許容範囲だし、それでいっか。



家族想いな所も見ていたし、

大好きな所の方が多いし、

と付き合って6年目で結婚した💍





が、しかし‼️




結婚して、子供が出来て、

日に日に旦那さんは

パワハラ化していったのであ~る。。。



→『第2章 - 結婚生活 -』に続く!







  


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寺嶋美絵

福井県在住 / 39歳

大好きな旦那さんと
子供3人と義母の6人家族♡

ずっと自分のことを否定して
心も身体もないがしろにして
生きてきました。

36歳の時身体を壊し
仕事が出来なくなり
強制終了がやってきました。

ずっと生き苦しかったのは
“自分の人生を
他人に明け渡していたからだ”と知り
自分と向き合いながら
日々生き直し中!

主婦&ママをしながら
過去のわたしのような人を
応援できるサービスを考え中♡