命がけの信心をせよ 命にかかわることでもおかげが受けられる

理解Ⅲ 尋急教語録




ご大祭でもお話ししたのですが、私はむしろ「お礼」こそ、命がけでさせていただくものだと思っています。



というのも、誰だって、命にかかわるような、生死を彷徨うようなピンチの時には、何を置いてでも、とにかく必死になって、一生懸命になって信心ができるもの。そういうことは、少なくないと思います。それはどうしても助けてほしいものだから、できることなのです。



しかし、お礼、お詫び、お願いといわれる中でも、特に一番大切な「お礼」は、何としてでもおかげをいただきたい時と同じ熱量でできるかというと、難しいのではないかと思います。



私は「お礼」こそ、何があっても、何を置いてでも、まずは一番に、神様のもとに駆け付けて表せるものではないと、「もう、いてもたってもいられない。ここまで周りも自分も無かった命を助けていただいたのに、じっとなんてしていられない、今すぐこの気持ちを伝えなければ」というくらいの思いでないと、場合によっては相手に伝わらないのではないかと、思うようになりました。



たとえ命を救っていただくようなおかげをいただいたとしても、ある程度時間が経ってくれば、次第にいただいた時の喜びは薄れ、感謝が薄れ、自分の心に言い訳をして、できない理由をあれやこれやと探し出し、



ともすれば、その隙を狙って出てきた疑いの心と仲良くなどし始めたりして、恩を仇で返すような振る舞いを始める。命懸けで必死に助けたいただいた相手に対して。今ある命や幸せは一体誰の一生懸命さの中でいただいたおかげだったかなんて、すっかり忘れてしまって。



自分だって油断をすれば、いつそのようなことをしてしまうことになるとも言えないので、常に大切なものを見失わないようにするためには、自分の心をよく見ていないといけない。それこそ命がけで信心をしなければならない、と思うようになりました。



自分の小さな欲を満たすために生きるような生き方はつまらないし、授けていてだいた今の幸せに報いるために、この命を使って、一生をかけて、命がけで、お礼を伝えていけるような生き方を、ぜひしていきたいと願います。