ある氏子が、お結界で、私に対して、



「先生が私のことを思って、お取次下さっていることはわかるの。でもね、私からしたら、なんてダメな子なんだって、こんなこともできなのかって、信心のお稽古も出来てないし、何もできないほんとダメな子だって、先生から責められているようにしか聞こえないの」



とおっしゃっいました。



そして続けて、



「本当は先生に責められていないのもわかってる。先生は私の成長を願ってそう言ってくださってることもわかってる。でも、先生に何を言われても、どうしても私には全部、責められているようにしか思えない」



と。



そこで私は、



「ねえ、ちょっと自分の心の中をよく見てみて。その声って、誰の声? あなたのことを、ダメだダメだと責めてくるその声って、誰の声? 先生は一度も言ってないし、思ってもないことばかりだから。その声はもともとあなたの心の中に、ずっと昔から、棲み付いている声なんじゃないのかな」



と話しました。



そして続けて、その声の正体は、実はめぐり(代々の先祖からの罪がめぐりめぐって、その一家やその人自身を不幸にしようしようと働きかける働きのこと)の声であるということや、



その声は神様と先生を信じさせないように、信心なんかさせないように、助かったりなんてさせないようにと、心の中を疑いまみれの真っ黒にさせようと、囁いてくるめぐりの声だということ



そしてその声は、何よりも信じたい、信頼したい人の声や姿を借りてくるものであることが多いからやっかいなのだということを、




お話をさせていただきました。




これは私が長年苦しんできたことでもありました。



時には一番信頼していた先生の姿形を借りて



また時には一番信じたかった幼い記憶の中の母親の声や姿を借りて



長年、私の中で、それらが私を責めてきました。



そうやって、私が本当に何もかも信じられないようになるように、私を不幸にしよう、しよう、とする働き(めぐり)が、幾度となくそのように仕向けてきたのです。



そしてそのような深いめぐりから、お取次をいただき続けることによって、助けていただいたあとでさえも、まだその声は…特に母親のその声は、きっかけさえあれば折々に聞こえてくることがあったのです。




新約聖書の中に、「サタン(悪魔)も光の天使に変装する」という文があるそうですが、



つまり悪魔が人に罪を犯すように仕向ける時は、天使の姿をして誘惑する、ということでしょうか。



どうしてか、めぐりもその人物を不幸にしようとするときに、そのときその人が、とても慕っていて、一番信じたいと思っている相手の声を借りてくることが多くて



そしてそれは、神様の前立ちであり、いつも一番に自分のことを祈り、お取次くださっていたはずの先生の姿であることも、少なくはない。



考えたら、とても残酷なことで、そのために本人はその矛盾に苦しむわけですが、



だけどそんな時こそ、何が何でも逃げないで、勇気を出して、お広前にきていただきたいものです。



お結界に進まれて、一度確かめてくだされば、こちらとしても、真実を伝えることができるからです。





「先生、私のことこう思っていますよね?」「先生、僕私のこと、本当はこう思ってるでしょ」





いいえ、それは、私の声じゃない



それは、私の考えじゃない



それは、私の想いじゃない



ならその声はいったい誰の声?



と、いう風に。





本当にそれは、今信じようとしている人、信じたいと思っていた人の思いや考えなのかどうなのか、そんな疑いがチラッとでもある限り、逃げずに、確認しに来ることができれば、安心なのです。



私も長年ずっとそうやって、いるべき場所から離れないでいたからこそ、守ってきていただくことができました。おかげで何とかかんとか、暗闇の底まで転げ落ち、取り返しなつかなくなる…ということは、なかったのです。



【 続く 】