感動をありがとう!!
高橋大輔選手の熱い演技を見て、感動に浸っていた。
巷では「感動をありがとう!」というけど、まさにそのとおりだった。
私もつい「感動をありがとう!」と叫ぶ。
確かに感動は心地良い。
演技が終わっても、私の頭の中で余韻が残って気持ち良い。
この感動って、どこから湧き上がるんだろう。
高橋選手のすべりは、芸術的でまさに素晴らしい演技なんだけど
それを超えたもっと熱く、奮い立たせるものがある。
演技力を超えたもっと先にあるもの。
私はそれに感動しているんだと思う。
高橋選手の清々しい笑顔、ガッツポーズ。
演技を終えたあの爽やかな顔には、その演技に至るまでに
何年も何年もフィギアスケートを通して、自分と向き合った汗の結晶を見た。
その汗の結晶は、並の人ではお目にかかることができない。
その汗の結晶に、人は感動を覚えるのかもしれない。
人間は不完全なので、どうしても自分と向き合い続けることはできないと思う。
自分と向き合うのは、自分の弱さを見て、それと折り合いをつける過程だと思う。
目標を設定した場合、それを達成するには自分と向き合う必要がある。
なぜこれをしたいのか、金メダルを取得するためには自分は何をするべきか。
そして、今の私には何が足りず、何をすればいいのか。
自分に問いかけ、自分で応える過程が、まさに自分と向かうことだと思う。
しかし、おそらくほとんどが何か目標を達成したくても、
人のせいにしたり、環境のせいにしたり、してしまう。
確かに、やむをえずという場合もあるだろう。
どうしようもなく、自分と向き合えない場合もあるだろう。
そして、向き合った結果、違う道に進むという選択肢もあり、
そう中々、1つのことをし続けることは難しい。
ひとつの事を続ける人は
目標を決めて、かつ自分との内省を怠らず、やり続けて戦い続けた人だと思う。
負けるときもあったと思う。でも、またやり続けた人たちが
このオリンピックの晴れ舞台に立てるのだと思う。
その上、オリンピックを目指す方々には、戦い続けた人たちの中で選ばれた人たち。
それは、自分の弱さとうまく折り合いをつけて、がんばり続けた精神力も
評価されてのことだと思う。才能だけではこのスターダムには立てないだろう。
また、オリンピックという舞台には、自分軸以外にも
国を挙げての大きな期待を背負っているという「負荷」がかかっている。
自分に向かうだけではなく
その「負荷」に耐える精神力も試される、これがオリンピックだと思う。
全世界中が見守る中で、押しつぶされそうになる「負荷」の中で
自分らしい演技をするという精神力と、今まで磨いてきた技術力に
私は、拍手喝さいと、それ以上に体の心から感動を覚えたのだと思う。
高橋選手、そして織田選手・小塚選手もそうですが
一人の選手にはたくさんの精神的な支えをしてくれるコーチや応援団がいる。
そのパワーも不可欠であり、そのパワーこそ彼らの力をさらに強めたのだと思う。
高橋選手が男子フィギアスケートでは史上初の銅メダルを獲得したことは
「やればできる」ということを身をもって体現してくれたと思う。
そのパワーが、やる気と勇気をみんなに届けてくれた。
その感動が、自分の人生のステージでも活かせればと思う。
「感動をありがとう!」
巷では「感動をありがとう!」というけど、まさにそのとおりだった。
私もつい「感動をありがとう!」と叫ぶ。
確かに感動は心地良い。
演技が終わっても、私の頭の中で余韻が残って気持ち良い。
この感動って、どこから湧き上がるんだろう。
高橋選手のすべりは、芸術的でまさに素晴らしい演技なんだけど
それを超えたもっと熱く、奮い立たせるものがある。
演技力を超えたもっと先にあるもの。
私はそれに感動しているんだと思う。
高橋選手の清々しい笑顔、ガッツポーズ。
演技を終えたあの爽やかな顔には、その演技に至るまでに
何年も何年もフィギアスケートを通して、自分と向き合った汗の結晶を見た。
その汗の結晶は、並の人ではお目にかかることができない。
その汗の結晶に、人は感動を覚えるのかもしれない。
人間は不完全なので、どうしても自分と向き合い続けることはできないと思う。
自分と向き合うのは、自分の弱さを見て、それと折り合いをつける過程だと思う。
目標を設定した場合、それを達成するには自分と向き合う必要がある。
なぜこれをしたいのか、金メダルを取得するためには自分は何をするべきか。
そして、今の私には何が足りず、何をすればいいのか。
自分に問いかけ、自分で応える過程が、まさに自分と向かうことだと思う。
しかし、おそらくほとんどが何か目標を達成したくても、
人のせいにしたり、環境のせいにしたり、してしまう。
確かに、やむをえずという場合もあるだろう。
どうしようもなく、自分と向き合えない場合もあるだろう。
そして、向き合った結果、違う道に進むという選択肢もあり、
そう中々、1つのことをし続けることは難しい。
ひとつの事を続ける人は
目標を決めて、かつ自分との内省を怠らず、やり続けて戦い続けた人だと思う。
負けるときもあったと思う。でも、またやり続けた人たちが
このオリンピックの晴れ舞台に立てるのだと思う。
その上、オリンピックを目指す方々には、戦い続けた人たちの中で選ばれた人たち。
それは、自分の弱さとうまく折り合いをつけて、がんばり続けた精神力も
評価されてのことだと思う。才能だけではこのスターダムには立てないだろう。
また、オリンピックという舞台には、自分軸以外にも
国を挙げての大きな期待を背負っているという「負荷」がかかっている。
自分に向かうだけではなく
その「負荷」に耐える精神力も試される、これがオリンピックだと思う。
全世界中が見守る中で、押しつぶされそうになる「負荷」の中で
自分らしい演技をするという精神力と、今まで磨いてきた技術力に
私は、拍手喝さいと、それ以上に体の心から感動を覚えたのだと思う。
高橋選手、そして織田選手・小塚選手もそうですが
一人の選手にはたくさんの精神的な支えをしてくれるコーチや応援団がいる。
そのパワーも不可欠であり、そのパワーこそ彼らの力をさらに強めたのだと思う。
高橋選手が男子フィギアスケートでは史上初の銅メダルを獲得したことは
「やればできる」ということを身をもって体現してくれたと思う。
そのパワーが、やる気と勇気をみんなに届けてくれた。
その感動が、自分の人生のステージでも活かせればと思う。
「感動をありがとう!」
小論文ってこんな感じ④
これまで小論文ってこんな感じ①~③まで書いてきました。
つまりは、「小論文のいろは」です。
このコラムは、第一に小論文のテーマについて知識が乏しいとき
第二に、小論文を書いているつもりでも作文になってしまうとき
「この原則に沿って書けば、それなりのものを書けるようになる」
ためにまとめたものです。
しかしながら、原則に沿って書いたとしても、
「これだけは、間違わないでほしい!」というセオリーがあります。
小論文ってこんな感じ④では、
ごく当たり前のことをお伝えしなくてはなりません。
それは、「誤字・脱字・汚い字はダメ」です。
当たり前ですが、これも難しいですね。
誰しも間違って書こうと思っていませんし、間違って覚えていたら元の子もないですものね。
ただし、小論文添削者にとって、一番のイメージダウンは「誤字」なのです。
実際、小論文では難しい漢字を書かせるわけではありません。
あくまでも中学3年生レベルの漢字だけで書いていいのです。
(余談)
(そういえば、新聞掲載用の漢字レベルも中3ですね。ただし今は中2レベルになったとか。
時代の流れですね。)
また、小論文を書かせる機会は
これから大学に入る、大学院に入る、就職する場合です。
その際に、ある程度の教養・知識が問われるわけです。
中3レベルの漢字が書けない、となると次のステップでの躓きになりますから
その点が心配され、心理的に減点対象になってしまいます。
したがって、誤字を防ぐ必要があります。
どうすれば防げるでしょうか。
もしも、書いた漢字が正しい漢字かどうか不安な場合、
別の言い方で表現したほうが良いでしょう。
簡単な言い方に換えても良いんです。
間違いじゃなければ、減点対象にはなりません。
「漢字を書くときは、慎重になりましょう!!」
また、小論文を書く人がつい見落としがちの評価対象が「字の美しさ」です。
字のきれいな人が得をするわけではありません。
丁寧に書くかどうかが問われるわけです。
この方が丁寧に書こうとしている場合、字の書き方、筆圧などでよくわかります。
でも、投げやりでとりあえず書こうとしている文章は、すぐ読んでわかります。
文字は、そのときの精神状態を少なからず反映しています。
その気持ちを含めて、書いている人を評価しているといっても過言ではないです。
また小論文は文章のコミュニケーションです。
コミュニケーションをとるときに、丁寧な対応、つまりきれいな字で書かれると
良い気分になります。そういう点でも、きれいな字、丁寧な字は評価が高くなります。
したがって、
書くときの心得として「誤字には注意。わからなければ別の表現で」
そして、「書くときは慎重に。字は丁寧に書きましょう」
つまりは、「小論文のいろは」です。
このコラムは、第一に小論文のテーマについて知識が乏しいとき
第二に、小論文を書いているつもりでも作文になってしまうとき
「この原則に沿って書けば、それなりのものを書けるようになる」
ためにまとめたものです。
しかしながら、原則に沿って書いたとしても、
「これだけは、間違わないでほしい!」というセオリーがあります。
小論文ってこんな感じ④では、
ごく当たり前のことをお伝えしなくてはなりません。
それは、「誤字・脱字・汚い字はダメ」です。
当たり前ですが、これも難しいですね。
誰しも間違って書こうと思っていませんし、間違って覚えていたら元の子もないですものね。
ただし、小論文添削者にとって、一番のイメージダウンは「誤字」なのです。
実際、小論文では難しい漢字を書かせるわけではありません。
あくまでも中学3年生レベルの漢字だけで書いていいのです。
(余談)
(そういえば、新聞掲載用の漢字レベルも中3ですね。ただし今は中2レベルになったとか。
時代の流れですね。)
また、小論文を書かせる機会は
これから大学に入る、大学院に入る、就職する場合です。
その際に、ある程度の教養・知識が問われるわけです。
中3レベルの漢字が書けない、となると次のステップでの躓きになりますから
その点が心配され、心理的に減点対象になってしまいます。
したがって、誤字を防ぐ必要があります。
どうすれば防げるでしょうか。
もしも、書いた漢字が正しい漢字かどうか不安な場合、
別の言い方で表現したほうが良いでしょう。
簡単な言い方に換えても良いんです。
間違いじゃなければ、減点対象にはなりません。
「漢字を書くときは、慎重になりましょう!!」
また、小論文を書く人がつい見落としがちの評価対象が「字の美しさ」です。
字のきれいな人が得をするわけではありません。
丁寧に書くかどうかが問われるわけです。
この方が丁寧に書こうとしている場合、字の書き方、筆圧などでよくわかります。
でも、投げやりでとりあえず書こうとしている文章は、すぐ読んでわかります。
文字は、そのときの精神状態を少なからず反映しています。
その気持ちを含めて、書いている人を評価しているといっても過言ではないです。
また小論文は文章のコミュニケーションです。
コミュニケーションをとるときに、丁寧な対応、つまりきれいな字で書かれると
良い気分になります。そういう点でも、きれいな字、丁寧な字は評価が高くなります。
したがって、
書くときの心得として「誤字には注意。わからなければ別の表現で」
そして、「書くときは慎重に。字は丁寧に書きましょう」
なぜ小論文を課すのか
最近小論文を添削していて思うことがある。
添削していると、この人の考えが手に取るように分かる。
ちなみに、文章そのものイコール考えとして理解しているわけではなく
その文章を書く背景が手に取るように分かるのである。
この背景には、人間性、価値観、人生観、その他諸々が
あふれ出ているのである。
この小論文という、文字制限を設けてテーマを絞ることで
この小論文を通して、何を主張したいのか、ではなく
「どう思われたいのか、それについて真剣か嘘か」が
手に取るように分かるのである。
だからこそ、入学するとき、入社するとき、昇進するとき
節目節目に書かせるのである。
つまり、新しい環境に入る前に、環境に入る心構えが
ちゃんとできているか、環境になじめるか、それを見るのである。
では、なぜ手に取るように分かるのか。
まずは小論文に志望動機を書かせてみる場合を考えてみる。
例えば、将来教師になりたいと思っている人に対して
「志望動機」を書かせてみれば、この人がどういう思いから
教師になりたいと思っているのか、よくわかる。
例をあげてみる。
教師になって子どもたちと共に成長したいという思いがあったとする。
しかし、本音の所では、不況下の安定職としての教師業を求めていたとする。
前述が建前で、本音はなるべく書かずに書こうとすると、以下の通りになる。
その本音の部分が、ちらっと覗かせるパターンは
子どもたちと過ごすイメージが強く抱けないまま書いている点に顕著に表れる。
つまりは、子どもたちと過ごすことに喜びを見いだせず
ひいては子どもたちと過ごすことで成長する自分と
教師業に就くための動機部分が論理的に飛躍した内容に仕上がってしまう。
本来、思いをめぐらすためには、動機に付随する思いがすんなりと書かれるものである。
しかし、志望動機がどうも建前を書こうと躍起になると
子どもたちと成長したい自分になるためには、教師になる必要があるという
そのなるための必然性が見いだせない内容を書いてしまう。
つまり、教師にならなくても、他の仕事でもそれはできるんじゃない?
という思いを、読み手に与えてしまうのである。
そんな隙をみせてしまっては、志望動機としては成り立たない。
こうやって、小論文というリトマス紙をさらして、心の中を垣間見る手だてにする。
これが、小論文を課す理由だと私は思う。
閑話休題
翻してみると、これ自体が小論文対策にも成り得る。
結果的に、志望動機にはこれではないといけない、という必然性をもたらすことが
一番の説得力につながる。
必然性は、そのなりたい職業(入りたい学校でも良い)が一日何をして何をもたらすか
何をすることで社会的貢献を果たしているかを、正確に知った上で初めてわかる。
なりたいことを徹底的に調べ上げるのである。何をする仕事なのかを。
ここで一体何が行われるかを。現実的に、具体的に、調べ上げるのである。
そして、その仕事の中での役割が、自分の生きる方向と合致していて
この世界に入らなければ成し遂げられない、絶対にそうでなければならないと。
これを相手に伝えられたらしめたものだが、これが一番難しい。
なぜならその世界に入ったことがないことがほとんどだから
イメージが湧かないことをリアリティを持って話すことは難しいからである。
だから、小論文は難しい。でも、悔しいことに小論文の添削者は
この難しさ故に、混乱した頭の中を垣間見る手段にしているのである。
そこをくぐり抜けて書かれた主張は、純度の高い考えであることが多い。
建前ではなく、本音により近い思いならば、相手にすんなりと受け入れられる。
そして、それこそ「良い小論文」という評価を下されるのである。
もしも、これを読まれている方が小論文を書く機会があって
人生の岐路に立たされているのであれば
そこを分かった上で、書いて欲しい。
少々演じて、自分の小論文の質を高めるために
説得性を持たせるために、主張の純度を高めて欲しい。
純度を高める方法は、「それってどうなのよ?」と反論する相手に
忍耐を持って説得する姿勢から生まれる。
決して、見守る思いで小論文を読む人はいない、そう思いながら
必然性を見つけるために、書いていけば、良い小論文に仕上がると思う。
添削していると、この人の考えが手に取るように分かる。
ちなみに、文章そのものイコール考えとして理解しているわけではなく
その文章を書く背景が手に取るように分かるのである。
この背景には、人間性、価値観、人生観、その他諸々が
あふれ出ているのである。
この小論文という、文字制限を設けてテーマを絞ることで
この小論文を通して、何を主張したいのか、ではなく
「どう思われたいのか、それについて真剣か嘘か」が
手に取るように分かるのである。
だからこそ、入学するとき、入社するとき、昇進するとき
節目節目に書かせるのである。
つまり、新しい環境に入る前に、環境に入る心構えが
ちゃんとできているか、環境になじめるか、それを見るのである。
では、なぜ手に取るように分かるのか。
まずは小論文に志望動機を書かせてみる場合を考えてみる。
例えば、将来教師になりたいと思っている人に対して
「志望動機」を書かせてみれば、この人がどういう思いから
教師になりたいと思っているのか、よくわかる。
例をあげてみる。
教師になって子どもたちと共に成長したいという思いがあったとする。
しかし、本音の所では、不況下の安定職としての教師業を求めていたとする。
前述が建前で、本音はなるべく書かずに書こうとすると、以下の通りになる。
その本音の部分が、ちらっと覗かせるパターンは
子どもたちと過ごすイメージが強く抱けないまま書いている点に顕著に表れる。
つまりは、子どもたちと過ごすことに喜びを見いだせず
ひいては子どもたちと過ごすことで成長する自分と
教師業に就くための動機部分が論理的に飛躍した内容に仕上がってしまう。
本来、思いをめぐらすためには、動機に付随する思いがすんなりと書かれるものである。
しかし、志望動機がどうも建前を書こうと躍起になると
子どもたちと成長したい自分になるためには、教師になる必要があるという
そのなるための必然性が見いだせない内容を書いてしまう。
つまり、教師にならなくても、他の仕事でもそれはできるんじゃない?
という思いを、読み手に与えてしまうのである。
そんな隙をみせてしまっては、志望動機としては成り立たない。
こうやって、小論文というリトマス紙をさらして、心の中を垣間見る手だてにする。
これが、小論文を課す理由だと私は思う。
閑話休題
翻してみると、これ自体が小論文対策にも成り得る。
結果的に、志望動機にはこれではないといけない、という必然性をもたらすことが
一番の説得力につながる。
必然性は、そのなりたい職業(入りたい学校でも良い)が一日何をして何をもたらすか
何をすることで社会的貢献を果たしているかを、正確に知った上で初めてわかる。
なりたいことを徹底的に調べ上げるのである。何をする仕事なのかを。
ここで一体何が行われるかを。現実的に、具体的に、調べ上げるのである。
そして、その仕事の中での役割が、自分の生きる方向と合致していて
この世界に入らなければ成し遂げられない、絶対にそうでなければならないと。
これを相手に伝えられたらしめたものだが、これが一番難しい。
なぜならその世界に入ったことがないことがほとんどだから
イメージが湧かないことをリアリティを持って話すことは難しいからである。
だから、小論文は難しい。でも、悔しいことに小論文の添削者は
この難しさ故に、混乱した頭の中を垣間見る手段にしているのである。
そこをくぐり抜けて書かれた主張は、純度の高い考えであることが多い。
建前ではなく、本音により近い思いならば、相手にすんなりと受け入れられる。
そして、それこそ「良い小論文」という評価を下されるのである。
もしも、これを読まれている方が小論文を書く機会があって
人生の岐路に立たされているのであれば
そこを分かった上で、書いて欲しい。
少々演じて、自分の小論文の質を高めるために
説得性を持たせるために、主張の純度を高めて欲しい。
純度を高める方法は、「それってどうなのよ?」と反論する相手に
忍耐を持って説得する姿勢から生まれる。
決して、見守る思いで小論文を読む人はいない、そう思いながら
必然性を見つけるために、書いていけば、良い小論文に仕上がると思う。
