息子の顔です。
ただ自己満足だけですが
本人が喜ぶので作りました。
どうしたらいいのか、自分でも分からなくなるとき
どうしたらいいのかなぁ、と考えてしまった。
人に相談することもしかり。
でも、人は私ほど親身になることはないが冷静に見られる分だけ
的確な回答を出すかもしれない。
しかし、それは自分で実行しないという気軽さが
そう言わしめているのかもしれない。
色々なアドバイスを参考にしている間に
自分で考えることから免れるため
楽になるといえば、楽になる。
でも、楽になった瞬間に実行するのは自分だと気付いた途端
急に人の後押しの後に続く、自分の行動が見えなくなる。
そこに自分の思いがない限り、行動が先に続かないからである。
そうなると、アドバイスどおりにはうまくいかないと気がつく。
さて、アドバイスも気軽さ故に自らが立ち向かうことになるのだが
どうも気が進まないとき、もう考えないほうがいい。
どうしても考える場合は
眠ろう。
起きて、考える場合はまた眠って食べて
健康にすごそう。
運動するとか、友達とお話しするとか。
それでも、どうしてらいいのかずっと考えてしまう場合は
信頼できる人のアドバイスを自分のアドバイスとして
もう決めちゃおう。決めちゃって行動起こして、
どうしたらいいのかわからない、から抜けだすという方法もある。
だって、どうしたらいいのか分からないと考えているほど
どうにかしてみたほうが、どうにかなるだろうから。
で、私はどうするかというと、まだ行動を起こせずにいる。
まだここが居心地が良いと考えているのだと思う。
それもしかり。もう寝ます。
最近小論文を添削していて思うことがある。
添削していると、この人の考えが手に取るように分かる。
ちなみに、文章そのものイコール考えとして理解しているわけではなく
その文章を書く背景が手に取るように分かるのである。
この背景には、人間性、価値観、人生観、その他諸々が
あふれ出ているのである。
この小論文という、文字制限を設けてテーマを絞ることで
この小論文を通して、何を主張したいのか、ではなく
「どう思われたいのか、それについて真剣か嘘か」が
手に取るように分かるのである。
だからこそ、入学するとき、入社するとき、昇進するとき
節目節目に書かせるのである。
つまり、新しい環境に入る前に、環境に入る心構えが
ちゃんとできているか、環境になじめるか、それを見るのである。
では、なぜ手に取るように分かるのか。
まずは小論文に志望動機を書かせてみる場合を考えてみる。
例えば、将来教師になりたいと思っている人に対して
「志望動機」を書かせてみれば、この人がどういう思いから
教師になりたいと思っているのか、よくわかる。
例をあげてみる。
教師になって子どもたちと共に成長したいという思いがあったとする。
しかし、本音の所では、不況下の安定職としての教師業を求めていたとする。
前述が建前で、本音はなるべく書かずに書こうとすると、以下の通りになる。
その本音の部分が、ちらっと覗かせるパターンは
子どもたちと過ごすイメージが強く抱けないまま書いている点に顕著に表れる。
つまりは、子どもたちと過ごすことに喜びを見いだせず
ひいては子どもたちと過ごすことで成長する自分と
教師業に就くための動機部分が論理的に飛躍した内容に仕上がってしまう。
本来、思いをめぐらすためには、動機に付随する思いがすんなりと書かれるものである。
しかし、志望動機がどうも建前を書こうと躍起になると
子どもたちと成長したい自分になるためには、教師になる必要があるという
そのなるための必然性が見いだせない内容を書いてしまう。
つまり、教師にならなくても、他の仕事でもそれはできるんじゃない?
という思いを、読み手に与えてしまうのである。
そんな隙をみせてしまっては、志望動機としては成り立たない。
こうやって、小論文というリトマス紙をさらして、心の中を垣間見る手だてにする。
これが、小論文を課す理由だと私は思う。
閑話休題
翻してみると、これ自体が小論文対策にも成り得る。
結果的に、志望動機にはこれではないといけない、という必然性をもたらすことが
一番の説得力につながる。
必然性は、そのなりたい職業(入りたい学校でも良い)が一日何をして何をもたらすか
何をすることで社会的貢献を果たしているかを、正確に知った上で初めてわかる。
なりたいことを徹底的に調べ上げるのである。何をする仕事なのかを。
ここで一体何が行われるかを。現実的に、具体的に、調べ上げるのである。
そして、その仕事の中での役割が、自分の生きる方向と合致していて
この世界に入らなければ成し遂げられない、絶対にそうでなければならないと。
これを相手に伝えられたらしめたものだが、これが一番難しい。
なぜならその世界に入ったことがないことがほとんどだから
イメージが湧かないことをリアリティを持って話すことは難しいからである。
だから、小論文は難しい。でも、悔しいことに小論文の添削者は
この難しさ故に、混乱した頭の中を垣間見る手段にしているのである。
そこをくぐり抜けて書かれた主張は、純度の高い考えであることが多い。
建前ではなく、本音により近い思いならば、相手にすんなりと受け入れられる。
そして、それこそ「良い小論文」という評価を下されるのである。
もしも、これを読まれている方が小論文を書く機会があって
人生の岐路に立たされているのであれば
そこを分かった上で、書いて欲しい。
少々演じて、自分の小論文の質を高めるために
説得性を持たせるために、主張の純度を高めて欲しい。
純度を高める方法は、「それってどうなのよ?」と反論する相手に
忍耐を持って説得する姿勢から生まれる。
決して、見守る思いで小論文を読む人はいない、そう思いながら
必然性を見つけるために、書いていけば、良い小論文に仕上がると思う。
子どもが2週間前におたふく風邪になった時
念のため
「私はおたふく風邪になったことがあるか?」と母に尋ねたところ
「なったと思うよ」というので気を抜いていたら、
なんとお医者さんにおたふく風邪と診断されました。
あれ?
再度親に確認したところ「あれ?なったことなかったっけ?
そういわれてみれば、おたふくになったことないかもしれない」
曖昧な回答。そして、私の記憶にもない。
よって、今までにおたふく風邪になったことがない私が
おたふく風邪になってしまいました。
大人のおたふく風邪は
とても痛いというけれども、そのとおりでした。
痛い、ご飯を食べるときに唾液がでますが
唾液を出すところが炎症を持っているので
それが痛くて痛くて。本当に、痛い。
食べた後、痛みで体の動きが止まる感じ。
薬を処方してもらい、やっとのことご飯が食べられる
という感じです。でも、薬飲んでも痛いけどね。
おたふく風邪という何とも「かわいらしい」病名?に
だまされた感があります。
予想を超えて、痛いです。
おたふく風邪になったので職場は一週間お休みしなさいと
お医者さんに言われました。とほほ。
おかげで、お休みしています。
おたふく風邪で休みながら
おたふく風邪のネタでブログを更新中。ヒマだな。
家のベランダに、鳩がぽつんと立っていた。
今日は風が強いから、ちょいとお休みかな
そう思って、よくよくみてみると
きれいな鳩!
また、人を怖がらない。
むしろ、凛とした様子で
「こんにちは。少々休ませてください」
と紳士的な態度で言っている様子。
それくらい、落ち着いている。
うーん、他の鳩とは違う。
足下に、なにやら赤いバンドがついている。
よく見ると、なにやら数字か文字が書かれている。
主人曰く
「これはもしや伝書鳩じゃ?!」
近寄ってみてみると
そこには携帯番号が書かれていた。
好奇心旺盛の主人が、早速電話してみると
飼い主曰く。どうやら「レース鳩」らしい。
「レース鳩?」
レースとは
ある地点からある地点までとばして
早く到着した鳩が勝ち、ということらしい。
つまり、この綺麗な鳩は
レース中に、戦線離脱をしたの鳩のようなのです。
おおお!
レース鳩なんて生まれてはじめて拝見しましたが
公園で集まっている鳩とは何かが違う。
まず鼻の辺りのこぶ?が大きいし
足が頑丈に見える
あとは羽根がきれいで、何よりも人を怖がらない。
飼い主が言うには
「捕まえてください!そして宅急便で迎えに来ます」
とのこと。
「え?捕まえる?
3次元に動く生き物を捕まえる?」
ドアを開けたら、鳩はすぐ家に入ってきた。
入った瞬間、うんちをぶりっ。
きゃーー!と叫ぶ主人。
鳥を飼った経験のある私は、鳥のうんちだ、と思うだけ。
それからがたいへん。
捕まえて、玄関に箱ごと保管。
宅急便で迎えに来る?って何だろ?
そう思って主人が調べたところ
どうやら「迷い鳩」専用宅急便があるらしい。
すごい!鳩を入れる箱をもって
宅急便の方がきてくれる。
そして飼い主へ持って行ってくれるシステム
があるなんて。世の中知らないことだらけだ。
さっそく、今日の朝
迷い鳩箱に入れられて、宅急便で帰って行きました。
かわいかったな。
そのプリティでもかっこいいレース鳩の写真です。
補足
ネットでレース鳩を調べたら
なんとこの鳩たち、高いそうです。
高いモノだと一羽25万!
安くても5万もするそうです!
また、レース鳩専門誌もあるみたいだし。
知られざる世界を垣間見た、今日この頃です。
最近、将棋を始めました。
始めましたといってもオンラインゲームとDSでですが。
高校時代に友達にルールを教えてもらったけど
よく覚えられませんでした。
でも、最近やりたくなったんです。
早速、ルールブックを購入。
熟読して、何とか基礎的なことだけは
覚えて打てるようになりました。
調子づいて、
実際に将棋盤も買いました。
これがすごいことに
全然勝てないんですね。とほほ。
自分の足場しか見ていないため
相手の攻撃に防御ができてないんです。
これは性格でしょうね。
自分の攻撃だけ目を向けて
相手の出方に何も対策を練っていない。
性格的特徴まで分かってしまう将棋です。
実は将棋をやるきっかけになったのは
前から羽生さんの言動が好きだったからです。
羽生さんの淡々とした言動からは
その人生の神髄のような片鱗が
見え隠れして、なんか哲学的だなと思ったんです。
その勢いで
羽生さんの本や羽生さんのインタビューを聞いて
将棋の知的格闘技たる世界を知り
「将棋してみようかな」と思ったんです。
まだやり始めなので何とも言えませんが
初めて思うことは、将棋という日本の文化は
奥が深く、はまったら一生使い切っちゃうくらい
すごい世界なのではないか、とビビっております。
まだ将棋をはじめたばかり。
楽しみを見いだし色々書いていきます。
愛知県から長野へドライブに行った。
お隣の県に行くだけのドライブなんて
そうたいしたことがなさそうである。
しかし、たいしたことがあったのである。
「隣県だからとあなどる無かれ!!」
私の叫びはこれにつきる。
結論から言うと
愛知から長野へ進む道はおどろおどろしい!
ということである。
田舎道のなだらかな山道を延々通る羽目になる。
そんなドライブの何が楽しいんだ、ということを
このエッセイで書く。
まず、今回のドライブを通じて
まず第一に
愛知県と長野県が文化圏の違いある理由が分かった。
愛知県の地図を見ると分かるとおり、長野に行くためには
まず市町村合併でバカでかくなった豊田市を通過する必要がある。
最大の関門は、ドライブの最中
度々確認する地域名の標識が
いつまでたっても「豊田市」なのである。
え?おばけにいたずらされている?っていうくらい
どこまでいけども、「豊田市」なのである。
きゃーー。猿投とか足助とか遠いと思っていたのに
まだまだ先があった、「豊田市」。
世界的大手自動車メーカーは
こんなドがつく田舎さえ「豊田市」にしてしまった。
それがすごいと思う、今日この頃だった。
そして、このどでかい「豊田市」は
長野までの道を、
どのように誘ってくれるかというと・・・
小高い山々を通過させ
何度も何度もカーブばかりで
その上、国道とは思えない道幅で
まるで、あぜ道をアスファルトにしちゃったような
心許ない国道であった。
その上、道幅が狭いため
カーブのたびに大きなトラックが
対向車線からきたら、冷や汗ものだった。
そんな予想もしない
デッドアライブ的ドライブをしながら
「まてよ、せっかくだからドライブを楽しもう!!」
あ、そうだ自然でも楽しもうじゃないか、と思いきや・・・
自然はかなり野生化していて
おどろおどろしい声で
「人間どもが通る道ではなぁい」と威圧するような
圧迫感あり。まるで山奥には魑魅魍魎の世界が・・・
あ、山の神様、なんか怒ってない?
と、普段神様を見ない私が、
神の言葉を出しちゃうくらい妙な威圧感がった。
その上、山々自体が、何故か暗い。
天気が曇りだったからかな。
多分に、心理的に心細くなっていたからだと思う。
川のスペースはない。
山と山の間をぎゅうぎゅうと
無理矢理つくられた道をくねくね行った先に
あ、集落がある!まるでオアシスを見つけた!!
「やった!人の住んでいるところを見つけたドーー!」
遭難者の気持ちになって集落に目をやれば
売店も閉店し、スキー場も夏場は閉店していた。
がーん。がーん。
所々お店があるが、寂れた看板があり
色落ちしたカーテンで店が閉められていた。
あぁ。自然だけではなく
人の気配もない、ここは本当に「豊田市」?
一定間隔にコンビニがある所に慣れた私は
ただ、国道のくせに道幅が狭い上に
でかい標識で「カーブ注意」「死亡事故多発」
とあり、標識も色あせている感じを見て
だんだん、心細くなってきた。
とほほ。
でも、絶対に長野に行ってやる!
そう決め込んだ矢先、主人曰く。
「あ、そうそうこの先にね、伊勢神トンネルがあるよ。
ここは日本でも有名な幽霊スポットなんだよ」
まさかぁ。幽霊スポットなんて
幽霊なんて、こわくないさ。
なんて思いながら、トンネルはいると
「きゃーーーこわい!他のトンネルと違う!!」
暗いしジメジメしているし、ライトも薄暗い。
ちょっと、ここやばいよー。ひー!と思っていたら
主人曰く。
「このトンネルは、新しくできた方で
旧のトンネルの方が心霊スポットなのよ」とのこと。
新しい方も、結構やばかったよ。
旧の方は、こりゃー察するにやばかったろうね。
自然のすごみと、人間が立ち寄ってはいけない地域が
もしかしたら、あるのではないか、そう思った道なりでした。
さてさて、だんだん山を下る様子になっていき
おお!これはもしや、だんだん長野に
近づいたんじゃない?と思ったら
標識みっけた!「長野県へようこそ」
やった!!
山から解放される。
これから下界に帰れる。
そう思ったのもつかの間、長野こそ山の県だったことを
私はすっかり忘れていた。
まだまだ田舎道、「豊田市」の続きが待っていた。
閑散とした集落、潰れた飲食店、色あせた標識、
まだ、まだなのか、下界にはまだなのか。
「もっと光を!」ゲーテも叫びたく心境。
そう思った矢先、長野県根羽村を通過中
なにやら、道の駅のような集落を発見。
大きな看板を声に出して読む。
「ネバーランド」
はてしない物語の著者もびっくり。
それもそのはず、根羽(ねば)村をもじったという
二重のびっくり。
心のオアシスがココにあった。
荒野の中のオアシスに出会えた気がした。
さて単に、長野の「おやき」が食べたいだけなのに
まだ長野へは着かないのか。そう思った矢先
「飯田市」の標識を見ることができた。
やった!!うれしい!!
飯田市について、主人が通ったという自動車学校を見て
駒ヶ根までいって、一番おいしい店でソースカツ丼を食べ
満足してかえった。
でも、同じ道は通りたくない。
そう思って、愛知県の南寄りである
豊橋から帰ろうと思った矢先
新しい道が出来たと言うことで、そこを通過したら
なんと一気に豊田よりの道へ出てしまったではないか!
きゃーー。豊橋に還して!!
もう戻るよりは、豊田から帰った方が良いと
また同じ道を通る羽目になる。
また同じ気持ちになるのは無理はない。
でも、1回通ると気が楽になるモノである。
あとは楽々でした。
ただ、天気予報で愛知県とはいえども
名古屋市と豊田市稲武は別で表示されているが
その理由が分かった。
稲武は涼しかった。冬は豪雪地帯のようだ。
同じ県でも、気候が全く違うんだな。
色々なことを見て
色々なことを感じて
色々な思いが有機的につながる旅は
やはり楽しい。でも、自然をあなどる無かれ!!
補足。
実は昨日、長野か静岡に行こうか悩んでいて
長引くようなら一泊も考えていましたが
長野で日帰りドライブにすませて良かった!!
だって、次の日この大地震ですものね。
あぁよかった。
武勇伝をひけらかす大人にだけはなりたくない
思ってもないのにいい顔する大人にも
物わかりの良さなんて大人のエゴだって
分かりすぎた頃には大人になっている皮肉
そんな皮肉に
打ちのめされるうちはまだ子どもなのかな
愛を知り愛を還す頃には少しは
大人になっているのかな
大人になりたくないと思ううちの大人には
まだ童心が宿っているはずだから
そういう感覚さえもなくなった頃には
都心のビル街の匂いがする大人になれる
大人になることがそういうことだけではないって
わかる大人になることが今の私の大人論
まだまだ先になりそうだけど