胃がん闘病ブログあとがき~1億回生まれ変わっても~ (最終更新) | 進行性胃がん(ステージ3)と闘っている母親を持つ息子のブログ

進行性胃がん(ステージ3)と闘っている母親を持つ息子のブログ

さいたま市の某所で猫二匹と進行性胃がん(ステージ3)
の母親と暮らしている30代の独身男が、「がんと闘う
家族の記録」を日々綴っていくブログです。

昭和22年9月8日、埼玉県のとある田舎町に一人の女の子が

誕生する。

四人兄弟の末っ子で、両親の愛情をたっぷりと浴びて、明るく

元気にすくすくと育った。高校卒業後、都内の大手電機メーカー

に就職した彼女は、偶然再会した高校時代のクラスメイトと恋に

落ちる。二人はやがて結婚。サラリーマンを辞めた夫と小さな

中古自動車販売会社を営み、二人の男の子をもうけた。

そのうちの一人が俺(ブログ管理人)である。


当初、親父の地元でマンション暮らしをしていた一家は、のちに

お袋の地元でオンボロの一軒家に移り住むことになる。

軽トラックにたくさんの荷物と一匹の犬を乗せ、やって来たのは、

雑木林に囲まれた年季の入った中古住宅。そこがお袋と

「最後の296日」を過ごした小汚くも愛すべき我が家である。


新天地での幸せな日々は、長くは続かなかった。会社の経営は

徐々に傾き、心労が積み重なった親父は、ある日、くも膜下出血

で病院に搬送される。平成8年1月28日、親父が48歳で死去。

深い悲しみに追い打ちをかけたのは、数千万円という、とてつもない

額の借金である。当時、まだ学生だった兄貴と俺を養いながら借金

の返済に奔走する日々。

お袋には悲しみに浸る時間さえも与えられなかった。

納骨式の際、「あの当時の苦労が間違いなくミエコ(お袋の名)の

寿命を縮めた」と言った伯父の言葉が今でも耳に残っている。


その後、いくつかのパート仕事を転々とした末、知り合いの紹介で

とある農業機械メーカーの正社員(事務員)として採用される。

「50代の新入社員」にとっては、毎日、つらいことの連続で、入社

当時は「胃潰瘍」になったこともある。それでも、病院にも行かずに、

黙って一人耐え続けた。皮肉な事に、その「我慢強さ」が数十年後に

お袋の命を奪うことになる。

胃がんが「手遅れ」になるまで、ずっと我慢し続けたお袋。


親父を失ってからのお袋の人生は「自己犠牲」の一言に尽きる。

「欲しいもの」「行きたい場所」「やりたいこと」のすべてをあきらめ、

ただ家族を守るために、毎日、一生懸命に働き続けた。お袋が正式に

会社を辞めた(退職が受理された)のは、実にがんで亡くなる「三日前」

である。わずか数日という、「隠居生活」ですら、脳梗塞によって

いっさい認識できなかったお袋。

最後の最後まで「働き者」のままだったお袋は、死んだ後、ようやく

神様に「人生をゆっくりと休むこと」を許された。

退職後、お袋と一緒にいろいろな土地を旅する夢は幻となった。


親父が亡くなって、兄貴が家を出て、お袋と一緒に「二人暮らし」をして

いたのは、ほんの数年間の月日である。それでも、その数年間は、

俺にとっては、本当にかけがえのない記憶の集合体で、もっとも

大切な遺産といえる。単に「親子」というだけでなく、いつしか二人には、

なにをもってしても断ち切ることの出来ない「深い心のつながり」が

出来上がっていた。

文字通り、「命をかけて」共に闘った296日の日々が俺とお袋を

「ひとつ」に結びつけてくれたように思っている。

誰かに心から必要とされることは、こんなにも幸福なことなのだ

と知った。

ただ、その幸福を知るための「代償」は、あまりにも大きすぎた。

この先、どれだけ月日が経っても、この心にぽっかりと開いた穴は、

埋められないような気がする。

それでも、その「穴」こそが、生前、お袋と作り上げた「絆」の在り処を

示しているなによりの目印でもある。


「がん告知後1年もたなかった」という「最悪の結果」を考えると、とても

「ベストな闘いだった」とは言えない。

悔いは山のようにある。

最大の後悔は、がんの進行が末期的になる前にお袋を病院へ連れて

行かなかったことである。

正直、お袋の身体の異変には、かなり前(少なくとも1年以上前)から

気づいていた。

去年の8月19日に初めて「がんの可能性」が指摘されるまで、お袋の

身体から発せられていたいくつもの「SOS」を深刻に受け止めて

いなかった罪は、重い。

そして、もうひとつ、それと同じくらい深く後悔しているのは、お袋を

最後まで「自宅」で看病してあげられなかったことである。

伯父夫婦宅(お袋の生家)で亡くなるまでの「最後の一週間」を

過ごしたことで、結果的に、家族および親族みんなでお袋の臨終を

看取ることができた。

それについては、本当に「良かった」と思っている。

ただ、その一方で、俺の心の中で、お袋との「二人三脚」を

最後の最後で放棄したという苦い思いがある。

当初、お袋は、伯父夫婦宅に行くことをかたくなに拒んでいた。

それは他人に迷惑をかけたくないという気持ちの他に「この家(自宅)

で人生の終焉を迎えたい」という願いがあったからである。

家族四人、そして、お袋と俺の二人で暮らした、この想い出の

いっぱい詰まったオンボロ一軒家で。

もしも、伯父夫婦宅に預ける前に「余命一週間」と分かっていれば、

絶対にお袋を自宅の玄関から出さなかったと思うが、それはもう

考えても仕方のないことだというのは、自分でもよく分かっている。

それでも、「考えても仕方のないことを考えてしまう」のは、それは、

失ったものが「この世でもっとも大切な人」だからである。


「想い」を語ればきりがないが、そろそろこの辺でこの「闘病ブログ」

を終わらせたい。

このブログに投稿されている297本の記事は、そのどれもが、

この世にお袋が生きて、そして、「進行性胃がん」という病気と闘った

「証」である。

ステージ4(末期がん)に進行後、あえてタイトルの「ステージ3」

という文字を変えなかったのは、「ステージ3の進行性がんの告知

から闘病生活のすべてが始まった」という事実を忘れないように

するためである。

また、このブログの記事に登場するすべての人々(お袋の闘病生活を

支えてくださった方々)に心からの感謝を。


納棺の際、お袋の棺にこっそりと忍ばせた一通の手紙がある。

写しもなく、すでに火葬場の「灰」となってしまったため、全文を

掲載することは出来ないが、その手紙に書いた文章の一部を

ここにもう一度書いておきたい。

それは296日にわたったお袋の胃がん闘病生活を一番近くで

見続けてきた俺の「心の奥底からの声」である。




「例え1億回生まれ変わっても、1億回あなたの息子になりたい」




一週間早いが、9月8日に誕生日を迎えるお袋へ。

「64歳」の誕生日おめでとう。

これから先もずっとあなたのことを愛し続けます。

たくさんの愛をありがとう。

いつかまた親子で仲良く「一緒に」暮らそう。

お袋と一緒にがんと闘った日々は、とてもつらくて、悲しくて、そして、

幸せな日々でした。



追伸


がんの症状は人それぞれです。

余命も人それぞれです。

この闘病記の結末を読んで、どうか「絶望」なさらないでください。

この闘病記は、がんという病気が「助からない病気」であることを

伝えるために書いたものではありません。

つらい闘病生活の中にも、「幸せな一日」や「大切な時間」がたくさん

あることを知っていただくために書いたものです。

末期がん患者は「死を待つ人々」ではなく、「最後まで生き続ける人々」

なのです。


すべてのがん患者のみなさんに明日も心穏やかな一日が訪れます

ように。



平成23年9月1日

船見奨


このブログを最愛の母「船見美栄子」へ捧げる。