こんばんは!
皆さんは好きな俳優さんはいますか?
私は学生の時から変わらずいまして、その人の本を購入しました♪
 
 
やっと…や~っと見つけました!オードリー・ヘプバーンの本!!
 
 
本の内容はオードリーの生い立ち。当時、流行になったサブリナパンツなどのファッションやオードリーがしてきたヘアスタイリングの写真と説明文が載ったものですo(^-^)o
 
 
私は昔からオードリーが好きで今までもポストカードやカレンダーを集めてきましたが、やっと欲しかった本がありました☆
 
 
他の本もまだまだ探してるところですが(笑)
 
 
ここでオードリーについて☆
 
 
オードリー・ヘプバーン(1929年5月4日~1993年1月20日)はイギリスの女優でした。
戦時中、ドイツ占領下にあったオランダで、オードリーという名がイギリス的であることを心配した母エッラが、自らの名前をもじってエッダと一時的に変えたりもしてました。
 
 
イングランド人でイギリスの保険会社に勤める父ジョゼフ・アンソニー・ヘプバーン=ラストンとオランダ人の母エッラ・ファン・ヘームストラ(バロネスBaronessの爵位を持ち男性の男爵に相当する。)のもとに、ベルギーの首都ブリュッセルで生まれます。
 
 
しかし生後3週間で百日咳にかかり、発作のために心臓停止状態となるも母親の必死の心臓マッサージにより蘇生。
 
 
5歳でイギリス・ケント州にある寄宿学校に入学。
その頃、両親は離婚し、ファシズムに共鳴した父親は家族から去ったそう。
10歳のときに祖父のいるオランダへ移住し、6年間アーネム・コンセルヴァトリーでバレエの特訓を受け、15歳には有能なバレリーナになっていました。
 
 
第二次世界大戦中はオランダで、密かにドイツのオランダ占領に対する抵抗運動の資金集めのために踊るなど、反ドイツのレジスタンス運動に従事していた。
 
 
オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、オードリーの目の前で銃殺され、彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられた。
 
 
オードリーは栄養失調のため急性貧血症で浮腫み、呼吸困難・水腫に罹り・黄疸が出る程の重体となりアムステルダムの病院に入院する。入院しても満足な治療を施せない物資不足の中、母親が必死で手に入れたペニシリンで九死に一生を得る。
 
 
16歳の時には、オランダの病院でボランティアの看護婦をしていたが、マーケット・ガーデン作戦で大激戦地となったアーネムの病院で一人のイギリス陸軍兵を介護する。20年後、彼は映画監督になって彼女の作品を演出することになる「暗くなるまで待って」のテレンス・ヤングである。
 
 
また、戦争中、食料がないときはチューリップの球根を食べ、飢えをしのいだという。なお「マーケット・ガーデン作戦」を描いた1977年公開の映画「遠すぎた橋」においてケイト・テル・ホルスト夫人役アーネム郊外の自宅をイギリス軍負傷兵のため提供する役をオファーされたが拒否しています。
 
 
アンネ・フランクと同い年で、戦後オードリーはアンネの事を知りひどく心を痛めたという。後年、映画『アンネの日記』のアンネ役のオファーもあったのだが辛い過去を思い出すのを恐れて断った事も。
 
 
厳しい環境の中、ロンドンでバレエを習う等、ヨーロッパを中心とする各国で生活した経験を持つ。そのためか英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語が抜群に堪能であった。
 
 
第二次世界大戦終結後、オードリー母娘はスーツケーツ1個とわずかな全財産でロンドンに移り住み、母のエッラは様々な職に就いて生活を支え、オードリー自身もエージェントの持ち込む映画やテレビ、舞台の端役をこなし家族を支えていたが「ラベンダー・ヒル・モブ」へ出演した際、主演俳優のアレック・ギネスに注目され、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー製作のスペクタクル大作「クォ・ヴァディス」の主演女優を探していたマービン・ルロイ監督へ主演候補として推薦されたが、結局は主演女優とはいかなったそう。
 
 
輝かしい成功しか目にも耳にも入りませんが、とてつもない経験をしていたんですね。
 
 
オードリーの代表的な作品の紹介もしちゃいます☆
お馴染みのローマの休日
麗しのサブリナ・シャレード・ティファニーで朝食を・他にもありますが今回の紹介はここまでにしときます♪
 
 
皆さん是非!
オードリーを知ったうえで見てみて下さい♪♪