プロレス、生でみたことある?
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【私とプロレス】
↑プロレス関係の写真で、私が一番大切にしている写真です
えー、1年365日、毎日「●●の日」というのがあるようですが、今日は『プロレスの日』だそうで
昭和29年の今日、日本で初めての本格的なプロレスの試合が行われた日ということで、プロレスの日に決められたそうです。
ここ最近、鉄道ネタや、昨年末の北海道旅行記を連載(?)しておりますが、私のプロフィールをご覧頂くと分かる通り、プロレス観戦も鉄道にも劣らぬ趣味の一つなんです😅
鉄道は物心付いた時にはもう好きだったのですが、プロレスはある程度成長してからハマりました。
小学校5年生の時です
当時は父親がプロレス大好きで、若い時に力道山の試合を観に行った時は興奮した、なんて話を何度も聞かされ、金曜の夜八時は「ワールドプロレスリング」、土曜の夕方五時半は「全日本プロレス中継」を絶対に見ていました。たまに残業で遅く帰ったりした時には、深夜に入っていた「国際プロレス中継」まで見てたようです
反対に私は流血したりして痛そうだから、という理由で、絶対に見ないようにしていました(笑)
その頃、テレビは一家に一台、父親のチャンネル権は絶対でしたから、父がプロレスを見始めると、私はテレビのない部屋へと避難して、ドラえもんを読んだりしていました
そ・れ・が!
急転直下、私は父親も呆れるほどのプロレス好きになってしまったのです
な・ぜ・か?
初代タイガーマスクの登場
昭和56年4月24日(金)の夜八時、私は父親から、タイガーマスクっていう面白そうなレスラーが出るから、一度見てみろと説得され、嫌々父と一緒に「ワールドプロレスリング」を見ていました。
そこへ登場したのが、タイガーマスク(初代)
私の抱いていたプロレスのイメージを覆す、華麗な空中殺法、綺麗な技の攻防に釘付けになり、タイガーマスクが最後に勝った時には、小5の私のテンションはマックス
「す、すげーっプロレスって面白い」
翌日の土曜日に学校へ行きましたら(土曜日まで普通に授業があった世代です 笑)、男子は昨日タイガーマスクを見たか❔という話で持ち切り
私もその輪に入りまして、延々とプロレス談義をしていました
一気にプロレスファンとなった私ですが、まだ最初の内は、金曜八時の「ワールドプロレスリング」は見るけど、土曜五時半の「全日本プロレス中継」は見ませんでした。
というのも、全日は新日より流血が多くて野蛮、出て来るレスラーも外国人が恐ろしくて…というイメージが、まだ拭えていなかったからです
その点新日は、流血なども滅多になく、爽やかに鍛え上げられた肉体で華麗な試合をしているというイメージ
金曜夜でしたから、次の日に学校で話題にできるというのも大きかったですね
それ以来、金曜夜八時は必ず「ワールドプロレスリング」を観るようになり、たまに他局でナイターが入って、父がそっちを見たいと言っても、「野球は後からスポーツニュースで見ればいいじゃん」と私は言い張るほどで、父も呆れてしまい(苦笑)、プロレス…というか新日本プロレスの大ファンとなった訳です。
そんな新日一途の私の概念を変え、全日本も見るようになったのは、スタン・ハンセンの移籍がきっかけです
私が「ワールドプロレスリング」を見始めた頃は、新日にハンセン、アンドレ、ホーガンといった、プロレスファンじゃなくても名前が分かる外国人レスラーがいました。
よく「伝説の田コロ」と言われる、1981.9.23のハンセンvsアンドレも見ました。これはド迫力でした。ちなみにその試合直後のラッシャー木村の「みなさんこんばんは」事件も見てます(笑)
さて新日でド迫力の試合をしていたハンセンが、全日に行って何が出来る試合のリズムも違うし、全日のレスラーなんて鍛えてないから、ハンセンにやられてイチコロだぜみたいな感じで(もう、まさに小学生男子の発想ですね)、ハンセンが全日でどんな試合をするのか気になり、土曜五時半の「全日本プロレス中継」も見始めました。
最初の内は若手や中堅辺りを秒殺していましたが、いよいよ御大ジャイアント馬場とのシングルが組まれ、新日派の私はジャイアント馬場が猪木vsハンセンみたいな試合ができるはずがないと思って、テレビ中継を見てました。
そしたら意外と言ったら失礼ですが、馬場さんが奮闘し、凄い熱戦に
最後は両者反則だったかな?決着は不透明だったんですが、ジャイアント馬場も凄いじゃんと思い、「全日本プロレス中継」も定期的に見始めた訳です。
そんな時代ですから、私以外の男子も殆どがプロレスファン
昼休みになると砂場でプロレスごっこ、これが定番でした(笑)
余談ですがプロレスブームのお陰で、なんと私は「イノキ」というあだ名がついたのです
本名が「井上」なもので、そこからありがたいことに「イノキ」なんていう恐れ多いあだ名がついたのですが、逆に「マイティ」とか付けられそうなところ、その頃マイティ井上は国際から全日に移籍して目立たないポジションにいたので、あまり知名度が無かったのでしょう
砂場プロレスは正式に小6の時に、団体として「笹小プロレス」と名付け、男子生徒12人がレスラーとして参加しました(笑)
一応私が発起人だったので、カードを組んだり、リーグ戦を企画したりしました。
お小遣いから自腹で笹小プロレス新聞なんてのを作ってコピーし、所属選手(笑)に配ってましたよ
そして小6と言うと、修学旅行
私は小学生の時は横浜にいたので、「日光」へ行くのが定番でした
日光へは修学旅行専用の団体列車で金曜出発、土曜帰宅というのが定番でした。
みんなが泊まる部屋にはテレビは無く、先生方の部屋にだけテレビがある、そういう時代でした
今みたいに録画して後から見れるような時代ではなかったため、夜8時になるとみんなプロレスが見たくて見たくて
折しも修学旅行へ行った日は、猪木vs国際軍団の1vs3変則マッチの結果が放送される日だったんです
その前の週にも放送されたのですが、残念なことに試合の最後まで入らなかったんですよ。
それで続きは来週、となったんですが、それって修学旅行の日じゃんか
男子はみんな文句言いまして、先生達に、お願い、先生の部屋でプロレスだけでも見せてと懇願しましたが、却下されました
しかし先生達はテレビでプロレスをしっかり見てまして、翌朝男子達に、
「おい、猪木が負けたぞ」
と一言。
猪木が国際軍団に勝つと信じていたウブな小6男子の落胆ぶりと来たら…
ちょっと脱線しましたが、この「笹小プロレス」は、小学校卒業と同時に解散、私は広島へ引っ越すことになりました。
中学校に上がってからは、タイガーマスクが引退というショックな出来事もあり、プロレス好きな男子もグッと減ってしまい、休み時間にプロレス談義する友達もいなくなってしまいました(苦笑)
中学の頃は専門誌が週刊化されるほど、ネタが盛り沢山だったんですが、教室でプロレスの話をすると、女子からは白い目で見られ、男子も乗って来ない、そんな個人的には不遇の時代でした
しかし私はタイガーマスクの引退とともにファンを辞めるなんて、プロレスラーに失礼だという、プロレスファンじゃない方には意味不明な理由でプロレスを見続けていました
高校に進学しても鉄道とプロレスが好きですと、ことあるごとに自己紹介してましたら、なんと高2のクラス替えの時に、俺もプロレス見てるよと声を掛けてくれた友人が現れました
私がテレビじゃなく、初めて生のプロレスを観に行ったのは、その友人とです。
広島のお隣、山口県は岩国市体育館に、昭和63年1月9日、全日本プロレスが来るから行こうよと、友人から誘われたんですよ
まだ高校生のお小遣いではチケット代に手が届かなかったので、プロレスに理解のある父親に財政支援をしてもらって、初めてプロレスを観に行きました
最初は地方興行独特の緩い雰囲気だったんですけど、セミファイナルで天龍同盟が出てきたら空気が一変
地方の寂しい会場でこそ燃えるという、天龍同盟の真骨頂が発揮され、寒い体育館が一気にヒートアップしました
その日以来、私は天龍信者です
それ以降もプロレスが下火になった時も、最低限結果だけは確認し続け、社会人になった今は再び機会があれば生観戦、場合によっては富山から東京まで遠征することもあります
何回も生観戦していますが、一番生で観に行って良かったというベスト興行は、2015.11.15に両国国技館で行われた天龍さんの引退試合です。
天龍さんが満身創痍なのに、シングルで18分近く、新日のトップのオカダ選手と闘い、最後は負けたんですが、確実に私に影響を与えて下さいました。
更に時は流れてますが、今も変わらず、プロレスは私の趣味です。
私をプロレスの世界に引き入れた新日本プロレスをメインに見てますが、その次に好きなのがなんと女子プロ
源流を遡るとジャパン女子という団体に辿り着くんですが、今はPURE-Jという名前の団体です。
女子プロも何団体か見たことはあるんですけど、他の団体は完全に一見さんお断りみたいな雰囲気で、ファンもレスラーもその空間に甘えてしまっているんです。
でもPURE-Jはそんなこともなく、新しいファンが現れたら、ようこそ、みんなで楽しみましょうっていう雰囲気。そしてレスラーさん達のファンサービスが素晴らしい
私も代表のコマンド・ボリショイ選手に、富山のミエハルとして顔を覚えて頂くという幸せ者
今年の春に病気で引退されるのが残念です
と長々と書いてしまいましたが、やっぱりプロレスは最高ですよ
これからも見続けるでしょう、きっと