本日二つ目の記事となります。
続きです。
。。。
心を作る祈りとは何なのかを、
引き続き紐解いていきましょう。
祈りとは、
霊的存在に自分の感情を開示すること、
となります。
この意味がわかるでしょうか?
大したことないな、思ってたより特別な感じがしない、これのどこが?と、思われるでしょう。
神の領域で当たり前に生きてきた日本人にとって、パワスポ高波動を高位としてきた日本人にとって、
それはかなり物足りない、何の特別感もないものとして感じることでしょう。
ですが世界でここまであまりに多くの人間に、祈りというものが広まっているということは、
ある意味とても簡単でシンプルなものに見えて、
実際の根はとても深いことを意味します。
そして、日本人は霊的存在に対峙する時、
必ず儀式を通してきました。
そこに本来の祈りはありません。
感情の開示は行わず、
愛ではなく高波動パワーの共有を目的とした、
意識の同調や願い事やチャネリング、厄払いや鎮魂など、
祈りは全て儀式としてあり、
祈りは全て神の代行者となるためのものでありました。
そして愛を頭の領域の意識に置くのが、神と対等に対話ができることとして、高位の意識としてもてはやされます。
ここに、「神へ自分の感情の開示する」は全く入る余地はありません。
自分の感情は薄く薄く、高位の意識のヴェールの外に追いやられ、遠くかけ離れてゆきます。
祈りとは一体何なのか。
この状態の日本人に、海外の祈りのノリは、わからなかったでしょう。
海外の人の祈りが、どこに何が作用され動いてるのかが、全くわからず、
神に崇拝を送るだけの盲目的な宗教心としてしか、みれなかったでしょう。
神の領域にいた日本人にとって、感情はノイズとしてしかみなされず、
そのノイズをそのまま神に当てこすることは、
不敬で不浄のように思ったことでしょう。
日本人にとっての愛は、感情のノイズにあてがわれることなく、不浄にあてがわれることなく、
自分のいちばん高い意識の頭の中の綺麗な場所に置かれ、
ただ眺めるだけのものとして捨て置かれました。
この愛の位置の違いが、わかるでしょうか。
たとえば、何かしらの災害や戦争が起こったとして、ではみなさん祈りましょうとなったとき。
日本人と海外の人では、その内容があからさまに違います。
感情に寄り添うことを愛として知っている海外の人たちは、
それで傷ついた人々の荒れる感情に、寄り添う愛を送ります。
そして、それをみて傷ついた自分の感情にも同じように愛を注ぎます。
神に祈ってるときと同じように、荒れる感情そのものにそっと触れるように愛するのです。
日本人が祈る場合は、その出来事の事象を動かそうとします。
戦争が止まって欲しい、災害が収まって欲しい、
これ以上被害が広がりませんように、
これ以上傷つく人が増えませんように、
2度と同じことが起こりませんように、
彼らが何かしらで、救われますように。
ありとあらゆるパターンの救いの事象をイメージし、それを望みます。
これが日本人の頭てつくられた愛のかたちであり、
頭で造られたものだからこそ、その人それぞれの
脳パターンの数だけ事象は望まれ、ばらつきがあります。
海外の人のような多くの人の愛の一体感のある祈りとは全く違うものとなっています。
このように、日本人と海外では、
同じ「祈り」として言葉があったとしても、
愛の位置が違うだけで、頭にあるか感情にあるかによって、その内容は極端に違います。
そして日本人は全く持ってその違いに気づいてません。
だからこそ、霊的存在に感情の開示を行うことの、その意味と重要性が、全くわからず、
理解することができません。
では、感情の開示が祈りとなること。
それを霊的存在に開示することの意味を、
日本人の知らない祈りの世界を見てみましょう。
続きます。。。


