私たちは、自分たちが思っているよりもずっとずっと、
対峙した相手と、物語を共有していました。
お互いがお互いの役を演じ、
次のステップに必要な役を演じます。
役のマッチングは、地球が行います。
お互いがシーソーに乗せられ、
揺らぎの中で行ったり来たりの流れを作られ、
エネルギーが両者の間を行き来しますが、
必ず、最後に向けて、
そこからどちらかが降りるまで、
力の関係性として終着します。
この時、エネルギーのマウントで勝っても負けても、
自分の物語には相手のその役割が必要であり、
相手にも、自分の役割が必要なことであり、
次のステップに進むための必要なものとして、
お互いの物語がいっとき、共有されます。
これは、短期間でも長期間でも同じです。
クレーマーの対処をしている店員が、
嫌すぎてそこを辞めるという選択の物語と、
自分抱えているストレスで
どんどん言動がおかしくなっていくというお客さんの物語。
加害者と被害者という物語がその時共有され、
ある意味、ここでの二人は結合しており、
役割の分かち合いが生まれています。
相反するものでも、その一瞬だけでも、
自分の物語と相手の物語が一致したこと、
背景はわかり合っているという、
共演者としての繋がりが生まれています。
だからこそ、それが過ぎてから、
あの時あれがあったからあの時の決断ができた、
あれがあったからこうすることができた、
として、嫌な出来事も、良い事として変換することができました。
これが長期間の夫婦のつながり、離婚までのお互いの物語でも同じです。
長い間のシーソーでの対峙、その長い間の役割の演出、
力関係の終焉となるどちらかの勝利によって、
その物語は終わり、共有していたシーソーを降り、
別のシーソーに向かいます。
シーソーに乗っているものは、お互いのセルの結合した状態であり、
それが相反するものでも、違う考えのものでも、
乗り合わせができるようになっています。
つまり、会話ができるということ。
これはとても重要です。
クレーマーでも、離婚間近の相手でも、
喧嘩腰のマウント相手でも、
私たちは今まで合わない人でも合わないなりに会話ができていました。
喧嘩腰でも、相手の言うことを理解してそれを投げ返すと言うことができ、
相手も、罵ってたとしても相手の物語に基づいたものを投げつけるので、
決着がつくまで、行ったり来たりの交流は可能でありました。
そして後から、そういう考えかた、捉え方もあるんだなと、
相手の物語を察し、自分の物語を整理することができました。
そして高波動で意識の共有もされているので、
言いたいことの文脈も、察することができました。
ですがここから、
シーソーのパワーバランスを力任せにぶんどる人がでてきます。
結合したことをいいことに、一気にたたみかけ圧倒的な上位を取り、
そして、相手にそこから降りることを禁止します。
上位を降りたくないもの、譲りたくないものは、
席にその相手をえんえんとしばることで、
物語は終わらないループを繰り返し続けられ、
次の物語に進むことがありません。
加害者と被害者としての落差、
その横暴さがどんどんと増していきます。
シーソーが強者の乗り物として成り立ってしまったことで、
その対峙する席に座らされたものは、
そこから抜け出ることに四苦八苦します。
私たちの物語を進めるのに、地球上にいる限り、
シーソーの席から逃れられることはできません。
誰かとなにかと結合がされ、
交流は必ず起こります。
自分を守るためには、自分の物語の内容を、
しんどいものを早く終わらせること、
学びのためのしんどいシーソーを、早く終わらせ、
軽いシーソーとのマッチングを目指すことで、
私たちはそれを乗りこなしてきました。
。。。
今、星の時を迎え、
地球のシーソーは動きを無くしています。
地球によるマッチング、
セルの結合による物語の共有、
役割の演者も、なくなりました。
つまりこれは、いいことも悪いことも全て、
相手との交流に、繋がりがまったくなくなったということ。
このためにこの時のこれがあったのか、
という物語起点のものがなくなり、
なんのためにもなんの役にも立たない、
ただの嫌な出来事、だけが単独で浮かび上がります。
もちろんいいこともありますが、
それもいいことだけであり、自分の物語との繋がりはありません。
そして、お互いがお互いにその役を演じているという、
一方的でも分かり合えなくてもできていた交流、
その共通言語がなくなります。
つまり、相手が何を言っているのか、
何に基づいてそれを発言しているのか、
背景も文脈もまったくわからないことが、
どんどんと増えていくのです。
合わないものでも、合わないなりにできていた会話、
察して合わせてあげることのできていたもの、
対峙して結合し席に座っていたことだからできていたものが、
まったくできないようになっていきます。
セルの結合でわからないものをわかっていたことが、
セルが分断され別々のものとなったことで、
ガラスを隔てた向こうで側で話しているような、
違う人種、違う言語で話しているような、
そんな交流の変化となっていきます。
私たちはお互いがお互いの力の原動力となるように
シーソーでその出会いと対峙させられてきました。
そのために、役割を演じるための台本が用意されていました。
台本を読んでいる時は、わかり合っていました。
だけども、もう台本はありません。
その出会いに力の源泉はなく、
共通の台本もありません。
相手は被害者を演じていても、
自分も被害者であります。
お互い相手を加害者としてなすり付けても、
シーソーがないことから、そこから立場は動きません。
どちらも被害者のままの会話が続き、
そこから何も動きません。
マイナスはマイナスで嫌な出来事でしかなく、
それもその位置から動くことはありません。
外されたシーソーは、そのものをそのもののままそこに残し、
放置されます。
自分の進めていた物語は、全く動かなくなりました。
自分の原動力とするために、大きな反発をあえて選んでいたものは、
ただの大きなしんどいものがあるだけで、
そこに対峙した疲労しか残りません。
今のこの時。
私たちは相手のいないシーソーに乗ってじっとしているか、
壊れたシーソーで噛み合わずお互いが睨み合っているか、
そのどちらかの状態となっています。
私たちは、分断された個人のセルの状態で、
自分の物語を続けていく事となります。
自分を動力として、自分の意思で、
自分の足でコマを進めていかなければなりません。
他の人との交流は、分かり合えないことが前提であり、
背景も環境も全然違う、
それぞれ違う物語と台本があることを理解しなければなりません。
それを踏まえて、
その中で同じ環境のものが一致したものがるならば、
そのものの上では、会話がなりたちます。
同じ趣味ならば、その同じ趣味の上でだけ。
仕事上なら、その仕事だけ。
家庭環境が違うなら、その話は合いません。
話が合うところと合わないところ、
セルが分断されたことによって、それらは細かく分けられます。
私たちがかろうじて繋げていたもの。
かろうじて繋がりがあったものは、
セルの結合により、保たれていたものでありました。
セルが個人単位で分断され、
私たちの集団心理、団体として保っていた意識は分断され、
結合だけで成り立っていた大きなものは、
崩れ去ります。
大きな名目だけで中身が伴ってないものは、
セルがバラバラになったことで、中身が抜け出ます。
シーソーの席からこれ幸いと抜け出て、
力を捧げていた大物の元から逃げ出せます。
もう台本はありません。
誰かの役も役割もなく、
その人はその人のまま、そこにあるだけであり、
自分もまた、そこに自分としてあるだけであります。
この当たり前のことを、当たり前にすることで、
私たちはあらゆる分断を経験しますが、
名ばかりの組織、名ばかりの社会、名ばかりの家族としての負担は、
確実になくなります。
ずっとずっと、シーソーで自分と周りと闘ってきた人、
守ってきた人は、
そこから降りることに恐れを抱くでしょう。
でもそこに、自分か、それ以外かを、
犠牲にしている、なっているものが少しでもあるならば、
いち早く、その動かなくなったものを乗り捨て、
止まっている自分を自分で動かすために、
自分だけを動力とするために、
星の空間へ、いち早く移行することをお勧めします。
犠牲が少しでも、垣間見えるならば。それは。

