こんにちは!

今日も読んでくださりありがとうございます❣️
 

 

このブログでは、1万人以上の母子を

サポートしてきた7名の助産師と
産婦人科医が
 
安産に向けた情報、
妊婦さんが知りたい情報について

日替わりでお届けします。



さとみんです

image

 

 

 

こんにちは、さとみんです。

 

春ですね。

 

ソメイヨシノはすっかり葉桜になり、

八重桜が咲き乱れています。

 

 

 

春と言えば、出会いと別れの季節。

 

 

ちょうど一年前、

私は12年間勤めた出産の現場を離れました。

 

 

それは、人生の中でも大きな節目でした。

 

 

これまでたくさんの命の誕生に立ち会う中で、
私自身もまた、何度も「再出発」を

経験してきました。

 

 

その経験を通して、
私はあることに気づいたのです。

 

 

それは、

「人生には二度、臍の緒を切るときがある」
ということ。

 

 

それは、心の深いところから始まる、
もうひとつの「生まれ直し」でした。

 

 

今日は、春にちなんだ私自身の経験を

ここに、綴ってみたいと思います。

 

 

 

家庭の中で感じていた違和感

 

 

私は、母と、母方の祖父母に育てられました。
裕福でしたが、優しい家庭だったとは、

正直言えません。

 

 

母はいつもどこか不機嫌で、祖母は無関心。
祖父は、祖母の顔色ばかりを伺っている。

そんな家庭でした。

 

 

祖父母は、仕事や結婚、私生活においても、

母の自立や自由を許さず、

 

母は常に祖父母への不満を抱えていました。

 


思い返せば、家庭の中には常に緊張があり、

安心できない空気を吸い続けていた

のだと思います。

 

 

母の顔色を読んで

感情を素直に出すことができず、

 

自分の喜びを禁じて我慢を重ねることが

当たり前になっていた私。

 


そのことが、私の“生きづらさ”の

根っこにあることに、

 

長い間気づかずに、

苦しみながら生きてきました。

 

 

 

祖父の死と、おじさんとの出会い

 

 

私が27歳のとき、祖父が亡くなりました。

 


家長の突然の死に、家の中は混乱に

包まれていました。

 

 

同時に、家庭の問題が表面化し、

ヒステリックになる母に

毎日、振り回されていました。

 

 

そんなある日、ひとりの“おじさん”が、
どさくさで、私の一人暮らしの家に

転がり込んできました。

 

 

母との関係がうまくいかず苦しんでいた私は、

母から逃れようと仕事に励んでいたのですが、

 

 

そのおじさんは、仕事から帰宅する私に

鍋や焼き鳥を用意して待ってくれていました。

 

 

ただの居候なので、

何の忖度も遠慮もいりませんでした。

 

 

都合が悪ければ追い出せばいい。

そんな風に思っていました。

 

 

ですが、次第にそばにいてくれるだけで、
安心感のある存在になっていきました。

 

 

何気ない日々の中で、私は初めて

ありのままの自分をさらけ出せる人

出会い、思う存分に人に甘えることを

知ったのです。

 

 

それは、生きることに満たされない母の

カウンセラーとして生きてきた私にとって、

幼少期に満たされなかった感情でした。

 

 

おじさんは、私が電話で母と口論すると

その様子を嘆き、「仲良くしてほしいよ」

と伝えてくれていました。

 

 

けれど、ある日突然、おじさんが倒れます。

 


夜中に救急搬送され、搬送先で医師に

「脳幹出血です。助かる見込みはないので

家族を呼んでください」

と告げられました。

 

 

おじさんの身元もわからないまま、
まだ空も明けない冬の午前4時頃に

 

おじさんの携帯に残っていた着信履歴に

一件ずつ電話をかけていきました。

 

 

 

出会いと別れの交差点で

 

 

翌朝、無事に連絡がついた

おじさんのご両親が

新幹線で駆けつけてくれました。

 

 

そこにもう一人、現れた男性がいました。

 

 

集中治療室の前で佇む姿を見つけた瞬間、

おじさんがよく話していた「後輩」だと

気がつきました。

 

 

その夜、ご両親とその後輩と一緒に食事し、

おじさんと過ごした日々について話をしました。

 

 

おじさんと赤坂で出会ったこと、

六本木に連れてってくれたこと、

本当に大阪に遊びに来たこと、

気づけば住み着いてしまったこと、

 

寅さんが好きで、いつも観ていたこと

迷惑だったけど、救われていたこと、

毎日が、楽しかったこと…

 

 

それから数日後に、

おじさんは息を引き取りました。

 

 

私はおじさんのパートナーとして、

ご両親と一緒に、最期を看取りました。

 

 

葬儀に行けなかった私は、

桜の咲き出した頃、おじさんの後輩と

一緒にお墓参りへ行くことに。

 

 

その後輩が、今の主人です。

再会したのをきっかけに、交際を始めました。

 

 

おじさんの死を契機に、私の人生は

静かに、けれど確かに動き出したのです。

 

 

 

家庭生活と、裏にある葛藤

 

 

私たちは結婚し、子どもにも恵まれました。

 


でも、私の家族の問題がすぐに

解決されたわけではありませんでした。

 

 

産後、主人と喧嘩して、子どもを連れて

家出をしたこともあります。

 

母と取っ組み合いのような

喧嘩になったこともあります。

 

 

その姿は、私が幼少期から見てきた

母と祖母の争う姿、そのものでした。

 

 

感情の渦に巻き込まれながら、
「こんなはずじゃなかった」と

何度も、相手や自分を責めました。

 

 

祝福されたはずの結婚生活の中に、
癒えていない“古傷”

確かに残っていると気が付きました。

 

 

「息子には同じ思いをさせたくない」

という強烈な想いが私を突き動かし、

 

それから、あらゆる学びに時間とお金を

費やすようになりました。

 

 

 

「女性性」の傷つき

 

 

そんな中出会った心理療法の先生に

ある時、こう言われたことがありました。

 

 

「女性性が傷ついていると、大切な人を

無意識に傷つけてしまうことがある」

 

 

その言葉が、胸に深く刺さりました。

 

 

私はずっと、母や祖母のことを
「わかり合えない人たち」と

距離を置いてきました。

 

 

けれど、もしかしたら彼女たちも、
傷ついたまま不器用に

生きていたのかもしれない。

 

 

愛し方を知らないまま、

誰にも頼れないまま、
精一杯だったのかもしれない。

 

 

そう思ったとき、私の中で何かが

ほどけていくのがわかりました。

 

 

 

祖母の最期と親心

 

 

心臓病を抱えた祖母の介護のため、

一時期、同居を試みたことがありました。

 

 

ある日、祖母が私に言ったのです。
「さとみに子どもができて、どんなに嬉しかったか」

 

 

私はその時、初めて、
祖母の愛をまっすぐに受け取ることが

できた気がしました。

 

 

しばらくして祖母は体調を崩し

入院を繰り返すように。

 


「姉妹に会いたい」という

祖母の願いを叶えるために、
親戚たちが動いてくれました。

 

 

高齢の姉妹が全員揃って面会できたのが

まるで奇跡のようでした。

 

 

そして祖母は安心したのか、

その日の夜、静かに旅立ちました。

 

 

家族は誰も、祖母の去り際には

間に合わなかったのですが、



母は祖母のいる病室に入った途端、

廊下に響き渡る声をあげて泣いていたと

後で主人から聞きました。

 

 

見舞いで、母が最期に聞いた祖母の言葉は

「あんたの帰り道が心配や」だったそうです。

 

 

反発し続けてきた母は、最期まで祖母に

愛の言葉を伝えられませんでした。

 

 

 

実父の愛と、夫の涙

 

 

私は実の父をFacebookで見つけ、

33歳の時、生まれて初めて会いました。

 

父に、祖母の訃報を伝えると、

メッセージが届きました。

 

 

「さとみさんが生まれてきてくれてよかった。

(母のこと)をよろしく」

 

 

恩人の祖母を弔って香典や花を送りたいが、

あえて何も送らないことにすると言う旨が

書かれていました。

 

 

私が父と出会ったことを、母は知らないからです。

 

 

そのメッセージを、私は葬儀に向かう車の中で

主人に読み上げました。

 


主人は運転しながら、父の気持ちを汲み取り、

静かに涙を流していました。

 

 

その背中を見て、私は

「この人と結婚してよかった」と

心の底から思いました。

 

 

 

臍の緒を切るということ

 

 

私は助産師として、何百本もの

“臍の緒”を切ってきました。

 

 

でも、人が本当に自分の人生を生きるには、
もう一度、自ら臍の緒を切る瞬間がある

と思うのです。

 

 

それは、これまでの過去や

家族のしがらみ、

他人の期待などを手放し、

 

 

「私は私として、生きていく」

と決めること。

 

 

それは、私の母が反面教師として

教えてくれていることです。

 

 

私はただ、結婚式の時に

感謝の涙を浮かべて繋いだ

母の手の温もりを、憎しみで

忘れたくはなかったのです。

 

 

 

 

 

私は、出産を経てようやく、

自分自身で“心の臍の緒”を切り、

 

自分の人生の手綱を

自ら掴むと決めました。

 

 

 

愛の学びを、届けていく

 

 

そんな気づきの中で、私は
「お母さんの心を育てる場所が必要だ」と思い、


『お母さんの予備校』というサポート事業を

運営してきました。

 

 

ひとりで届け続けることの難しさに、
何度も立ち止まりそうになりました。

 

 

それでも、

 

「母になるとは何なのか」

「心をどう育んでいくのか」


そんな問いと向き合ってきた経験は、
今の私の土台となっています。

 

 

そして今、助産師の仲間たちと共に、

新たなかたちで、
母になりゆく女性たちに

届ける準備を進めています。

 

 

完璧な親など、どこにもいません。

 

 

むしろ、母親が自分らしさを受け入れ、

ありのままの姿で生きていくこと

 

 

それこそが、家庭を照らすことを

伝えたいのです。

 

 

 

今、これを読むあなたは、

様々な家庭の事情で、

辛い境遇にいるかもしれません。

 

 

だとしても、春はやってきます。

 

今は信じられなくても、必ず道はあります。

 

 

あなたの中にある小さな光が、やがて

その道を照らすことを私は信じています。

 

 

そんな祈りを込めて、

私たちは光を届けていきます。

 

 

 

そして、春の前夜に

 

 

 

おじさんを看取った冬の終わり、

そして主人とお墓参りで再会した春から

8年が経ちました。

 

 

この物語を、いつか何らかのかたちで

届けたいと思っています。

 

 

具体的には、おじさんの人生を、

映画に出来たらなと考えています。

 

 

何年か前から考えていたのですが、

最近この曲を聴いて、その構想が

頭の中を巡っています。


【YouTube】紡ぐ / とた - Tsumugu / Tota

 

 

 

 

おじさんがあの時の私を

包み込んでくれたように

 

 

傷ついた心を優しさで包むことが

出来たら良いなと思います。

 

 

歌詞にあるように、

「虹がかかり、そして繋がる」ような

 

誰かの人生の“春”が始まるその前夜に、
そっと寄り添える存在でありたいです。

 

 

 

 

 

 

ここまで読んでくださって、

本当にありがとうございました。

 

 

私の経験が、あなたの心のどこかに

灯る光となれば、嬉しく思います。

 
 
 
 

助産師7人と産婦人科医1人で毎日発信❣️

 

 

 

明日は、お酒が大好きなまゆちゃんです❤️

 

 

 

 

 

助産師の読者さんにおしらせ

 

無痛分娩ケア勉強会の2期募集が始まります!

気になる方は、LINE登録やインスタをチェックしてくださいね☺️

 

無痛分娩ケア勉強会 詳細を見る

 


 

    
🌸 「安産革命!助産師7+1のリアル出産ジャーナル」は、無痛分娩ケア勉強会の受講生と助産師さとみんが、助産師の視点から「痛みの少ない快適なお産」についてリアルに発信するブログです。

 

 

 

無痛分娩ってどんなもの?
快適なお産のためにできることは?
助産師が伝えたい、本当に大切なこと

助産師7人+産婦人科医1人が交代で更新!


あなたの出産が「最高の経験」になるよう、
ぜひ一緒に学んでいきましょう💖


 

 

📌ブログの更新情報は「助産師さとみん」のSNSでチェック!
📲 Instagram・YouTubeもフォローしてね!


Instagram

助産師さとみん 無痛安産の鬼👹
 

YouTube

助産師さとみんと愉快な仲間たち