もうすぐ開催する保護者向けの性教育の準備をしていて、考えたこと。

 

以前、Netflixで韓国のn部屋事件に関するドキュメンタリーを見た。

n部屋事件とは

テレグラムという匿名性の高いメッセージアプリを使った性犯罪で、

被害者を奴隷と称して、精神的に支配して、

彼女たちの動画や画像を多くの閲覧者に晒した

(内容は残酷すぎて、番組では濁していました)というもの。

 

 

 

n部屋事件だけではなくて、

例えば集団で性暴力を図るような、

人を人と思わないような残酷な事件が起こると、

犯人はどうしてこんな酷い人になったのだろう、

どうしてこんなに認知をゆがめて生きるようになったのだろう、と苦しくなる。

 

 

 

犯人が捕まっても、

彼らがしたことの本当の意味を理解し、

被害者の痛みを想像し、悔やみ、罪を償い、

彼らの認知が根本から変化することができるのか、

暗澹とした気持ちになる。

 

 

 

 

だからこそ子どもたちには、できるだけ早い時期から

性教育が必要だと思う。

 

 

 

と同時に私たち大人も学び続けないといけないし、

もちろん性犯罪を犯した者たちにも性教育は必要だ。

 

 

だけれど、特に大人になってからの学びには限界も感じる。

 

 

「相手も自分と同じように、心を持った一人の人間なのです。」

 

「人と人は対等なのです。

支配-被支配の関係性はいびつで、あるべき姿ではないのです」

 

と言葉で理解することと、

自分がありのままで受け入れられる、つながりの経験を

何度も何度も体験的に繰り返していくことで得られる感覚はちがう。

 

 

自分の弱さをとりつくろうことなく、受け止められる経験。

相手が自分を信頼して心を開いてくれる経験。

 

きっと犯人たちには、

そういう経験が圧倒的に不足していたんじゃないかって想像する。

 

 

自分と人を信じることができれば、

たとえ傷ついたとしても、気持ちが折れてしまったとしても、

何度でも何度でもまた立ち上がれると信じている。

 

 

相手をめちゃめちゃに陥れたい、っていう残虐な気持ちにだって

きっとブレーキをかけられる。

 

 

肉体や、肌のぬくもり、声のひびき、まなざし。

 

目の前の人が、今ここに生きている人だと感じ取ること。

 

 

たとえそれが、ネット上の文章であったとしても、

画像であったとしても、

その向こうには、肉体と心をもった

私やあなたと同じ人がいると想像できること。

 

 

 

 

そして結局、私になにができるのか

 

結局いつもそこに立ち返る。

 

 

自分より弱き者を「支配」しないこと。

心をつぶさない事。

(それは本当に簡単にできてしまうから)

 

否定され抑圧された心は、

怒りをため込み、自分より弱い物に発散するようになる。

 

負の連鎖が生まれる。

 

 

愛し続けること。

 

「あなたが生きていてくれることが本当に幸せ」

それを伝え続けること。

 

言葉でも態度でも。

 

 

「支配しないこと」

 

私自身に、しつこいほどリマインドし続ける。

 

それから

自分の弱さも、自分の負の感情も

ないことにしないこと。

 

抑圧した自分の感情は、大暴走をおこして

人を傷つけることが簡単になる。

 

 

そして無防備な心をひらき、つながりつづけること。

 

 

 

それが私が親として、

一人の大人としてありたい姿であり

私への願いだ。