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★★★暗殺があり謀略があったあの時代

 

 今日はあの時代の二人の暗殺事件を見ていきます。

★佐分利公使の怪死

 

 いろんな人物が殺されたあの時代

 今回2人の人物の死をみていきます。

 佐分利貞男公使の事件をみてみましょう、、、、

 1929年11月29日朝、外交官、佐分利貞男は、箱根宮ノ下にある

 富士屋ホテルで死体で発見された。

 

 彼は1929年8月、浜口内閣の外相、幣原喜重郎に乞われて

 駐支那公使(現在の大使)に就任した。

 佐分利は、田中義一内閣による積極外交や、張作霖爆殺後に悪化した

 対支外交の打開を期待されていた。

 

 死体で発見されたこの日は、北京から一時帰国していた。

 死因はピストルで頭部を打ち抜いたことによる即死

 警察は自殺と断定した。

 

 自殺にしては不可解なことが多く、まず遺書はなかった。

 明日からの行動予定もあった。

 それに佐分利は左利きだったのに、ピストルは右手に握っていたこと。

 使用された拳銃が出所不明だったこと。

 これらのことからその死に疑いを持つ者が多い。

 

 佐分利の死に疑いを抱くひとり、幣原喜重郎は

 「佐分利君は北京の公使になり、打ち合わせることがあって帰ってきた。

  それで話がきまったので

  【非常に愉快だ、これで中国に帰任します。

   しかし今日は一日、舟を漕いであそんできます。】

 と言った。

 逗子へ行ってしばらくスカールを漕いだ。

 それから急に気が変わったらしく箱根へ行った、もう夜であった。

 宮ノ下の富士屋へ泊った、そしてその晩、不慮の死を遂げた。

 彼はピストルで死んだ、私はその知らせを聞くとすぐに箱根へ駆けつけた。

 彼は右の手にピストルをもっていた。

 ところがピストルの弾は、左のこめかみから入って、右に抜けている。

 それは実におかしい、、、、

 もう一つ、わからないことは、彼の使ったピストルは、彼自身のものではない。

 彼のカバンをあけてみると、彼のピストルが出てきた」

 

 この事件については、松本清張も作品を書いています。

 「昭和4年11月28日の夜、12時近いときである。

  箱根宮ノ下にある富士屋ホテルの玄関に、雨の中を車が入ってきた。

  彼は仙石原から電話で呼んだのである。

  客は支那公使、佐分利貞男だった。

  ホテル従業員の磯崎に

  【明日は午前10時15分東京着の汽車で帰るから、6時半に起こしてくれたまえ】

 

  佐分利の怪死は、もはや一切の手がかりを失っている。

 しかし筆者は、自殺よりも他殺を強く推定したい。

 まだ生きていたころの、丸山鶴吉(当時の警視総監)は、この事件を

 人に聞かれて、

 【あの事件の真相は、日本の国体が変わったときに初めてわかる】

 といったという。

 このへんのところがへん真相かもしれない。

  

 

 1931年9月18日、柳条湖事件

 佐分利が駐支那公使になったのが、1929年8月

 死去したのが、1929年11月

 

   佐分利は1929年8月に幣原喜重郎に乞われて公使に就任した。

  幣原喜重郎は1929年7月から1931年12月まで外務大臣です。

 

 ★阿部守太郎暗殺事件

 

1913年9月7日付大阪朝日新聞は、

【安倍政務局長刺される】

の見出しで次のように報じました。

 

「霊南坂の自宅に入ろうとする刹那、門内の暗闇より一人の凶漢躍り出て

 同氏の背後より、動かせじと抱き着くと同時にまた、一人の凶漢現れ

 一尺余りの短刀をひらめかして、突然同氏の腹部を突き刺し重傷を負わせ

 返す刀に右股突き立てり」

 

 9月5日、外務省政務局長の阿部守太郎は、赤坂霊南坂の自宅門前において

 二人の凶漢に襲われ、短刀で刺されて翌日死亡しました。

 まだ42歳でした。

 

 犯人は岡田満、18歳の国粋主義者、逃亡したが自首するため

 弁護士の家に向かいます。

 弁護士は、夜11時警視総監を訪ねるため自宅を出ます。

 岡田は酒を飲まされ、二階で床を延べられていました。

 

 ところがその弁護士が帰宅してみると、岡田は壮絶な割腹自殺を遂げていた。

 そばには遺書がありました。

 「氏をして一日を生かしめんが、帝国の威信は一日失墜せん」

 

 もう一人の犯人は、宮本千代吉、21歳

 満州に逃亡しようとしているところを見つかり、捕まえられて

 その後、獄中死します。

 二人の墓は谷中の全生庵にあります。

 

 全生庵とは、維新に殉じた人々の菩提を弔うため建立されたものです。

 この全生庵では、大物が座禅をしています。

 中曽根康弘、安倍晋三、、、、、

 

 中央公論1995年6月号で田原総一朗と四元義隆が対談

 田原、、、、、、、中曽根さんが全生庵で、座禅を組むようになったきっかけは

           四元さんの進言だそうですね。

 

 四元、、、、、、、そう、僕が座らせた。

           彼が自民党総裁に決まったその夜、あそこで12時まで

           3時間ぐらい座った。

 

 四元は血盟団事件に、連座し入獄(懲役15年)した人物です。

 犯人の岡田満と宮本千代吉を教唆したのが、岩田愛之助という

 24歳の男です。

 岩田は無期懲役の判決を受けています。

 

 岩田は仮出獄後、1928年に右翼団体、愛国社を結成

 その愛国社の団員、左郷屋留雄が浜口雄幸首相襲撃事件を起こす。

 1930年11月でした。

 

 ◎外務省の百年(外務省百年史編纂委員会編、原書房)

   阿部守太郎は、内田康哉外相の下で、政務局長兼取調局長の

   要職につき、山本権兵衛内閣の外相、牧野伸顕の下においても

   信任を得て中国問題は、阿部局長と現地の伊集院公使との線で

   処理されていると一般から目されていたものである。

   そのため局長の遭難は、対中国、満蒙問題に起因したもので、同年夏、

   いわゆる中国の第二次革命に際し、北軍兵士との間に不祥事が発生したが

  政府の処置が軟弱であるとする、非難攻撃が軍人、在野党、対支政客に起こり

  やがて局長を非命に倒す不祥事を引き起こしたものであった。

  遭難した当日の午後には阿部邸に、憂国男子なる差出人の

  斬奸状が配達されていた。」

 

  その斬奸状の内容は

  【外は東に神州の国威を凌辱蹂躙せられ、西には曾て二十億の巨財と

   十万の同胞が屍山血河悲惨極まる努力によって、漸く得たる満蒙を捨てて

   顧見ざる巳ならず】

 

 阿部守太郎は、外務省きっての中国通で対中外交の中心的存在でした。

 軍部や大陸浪人が抱く、領土的野心を否定していました。

 暴をもって、暴に処するは国債の信義に悖る、、、という信念をもって

 日中平和の外交政策を進めていたのです。

 

 なぜか、日中平和を進めたり、軍部に批判的な人物は暗殺の対象に

 なって次々と殺されていきました。

 そして刺した側の勢力は、その後どんどん巨大になっていきます。 

 

 

 

 日米開戦の正体著孫崎享