加計学園の問題が騒がれています。
加計学園も森友問題も、ともに安倍首相が絡んでいます。
権力者は何をやっても許されるとでも考えているようです。
その陰でまた国民にとって、嫌な問題が出て来ました。
それは国民年金です。
31年からまた国民年金の掛け金がアップします。
月額100円アップすることが決まりました,
小泉政権のとき上限が決定しているのに、なんでまたあげるんでしょう。
一応、理由は自営業、農業、漁業を営む人たちの産前産後の休業期間の保険料を
全額免除するための財源として使用するためだそうです。
上限なんて決まっていても、関係ないんだね、、、、
★★★再び加害行為を
日本は世界で何をしてきたか、、、
今日はベトナムをみてみます。
●ベトナムに対する責任
ベトナムは日本軍が進駐したあとも、長期にわたってフランスの統治を許し
最後になってフランスの権力を奪って直接占領下に置きました。
◎経済学者 小林昇 体験記「私の中のベトナム」
小林氏は1944年に一兵卒として、ベトナムに送られました。
日本がベトナムを戦禍に巻き込んだ結果、住民にどのような禍害を与えたかについて
記されています。
「あらゆる搾取で裸になっていた北ベトナムの民衆は、メコンデルタと中国の南部とから
米を輸入して生きていたのである。
トンキンでは水田の二毛作を営む農民でさえ、極めて弱い自給力しかもたなかった。
こうしたところへ太平洋戦争が深刻化して、南北からのコメの輸送が途絶えた。
南シナ海を航行する汽船はもうなかったし、ベトナム縦貫鉄道は多くの鉄橋を
昆明からのアメリカの爆撃によって、破壊されていた。
私はサイゴンからハノイに着くまで、汽車を乗り継いで10日かかった。
そのため未曽有の飢饉が、やがて来るはずのソンコイ川の大洪水の以前に
北ベトナムを襲ったのである。
ソンコイのデルタの南端にあるナムディンの町は、トンキンではハノイ、ハイフォンに次ぐ
都市である。
私はサイゴンからここにたどり着いたとき、猛烈な飢餓の惨状にいきなりでくわした。
四方から流れ着いた農民の家族たちが、文字通り骨と皮だけになって
街路に瀕死してゆくのである。
それは栄養失調の死ではなく、絶食の死であった。
息を止めた夫の体にすがって、妻や子の哭いている歩道を、幾時間かして戻ってくると
妻の方ももう生命の印がかすかになっているというような、、、、
やがていたるところで、接しなければならなくなる光景に私は初めて接したのであった。
市の大八車が路上のそういう死者を積み上げて、屍臭をふりまきながら
焼き場へと運んでゆく。
その車にはまだ確かに息の通っていると思われる体も積み込まれていた。
この洪水は広い範囲に及び、トンキン平野の主要部分を覆いつくしたといってよい。
北部の北ベトナムの凶作は、この出水が加わったためほとんど破壊的な影響を
民衆の生活に与えた。
そのうえ炎熱下の洪水は、コレラを発生させてソンコイ川には絶えず死体が流れ
堤防には野犬が群がった。
私は1964年になって、初めてヨーロッパを訪れる機会を持ったとき船の中で
サイゴンの孤児院に帰任してゆく、オランダ生まれのカトリックの神父と
口をきくようになった。
当然20年前のベトナムのことが話に出たが、眉を寄せて
「あなたはあの時、どれだけの人が死んだとおもいますか」
「ほぼ200万人でしょう」
そして、あの時のことを知っている人がいようとは、、、と、、、、」
◎「現地で見る爆撃下の北ベトナム」 1965年5月28日 毎日新聞
「45年に占領していた日本軍が敗退して、平和がよみがえったが、このとき
大飢饉と日本が米作地帯をジュート畑に転換したこと、、、
また日本軍がラオスへ備蓄米を輸送したため、凄まじい食糧不足となり
200万人近くが飢え死にしたという。」
と第一通商社員の野村嘉彦さんが語った。
日本がベトナムを戦争に巻き込まなければ、出なかった惨事であることは否定できない。
それは中国、シンガポール、フィリピンのように日本軍が手を下して人を殺した
残虐行為ではないが、その原因が日本の戦争行為にあるとするなら
日本はベトナムに対しても重大な戦争責任があると言えます。
ところが戦後、日本政府はほとんど実害を与えなかった南ベトナムに対してのみ賠償し
巨害を加えた北ベトナムには賠償をしませんでした。
そればかりか、アメリカのベトナムに対する残虐な侵略戦争に、日本は積極的に協力し
再びベトナムに加害行為を加えたのです。
戦争責任 家永三郎著