春になると花粉症がいやですね。
私の姉妹もいとこにも花粉症がいます。
花粉症にはヨーグルトがいいといいますが、ヨーグルトならなんでもいいわけではないそうです。
パッケージにある細かい記載まで読む人はあまりいないと思いますが
次の六個の菌が、免疫細胞のバランスを整えるのに有効です。
ヨーグルトを買うときは、ちよっと気にして見た方がいいですね。
フェカリス菌
L-55乳酸菌
LG21乳酸菌
BB536ビフィズス菌
1073R-1乳酸菌
KW乳酸菌
乳酸菌は長時間腸内にとどまらないので、毎日継続して食べることが必要です。
ヨーグルトだけが免疫を強くするたべものではないので、私は粉末納豆を
毎日、夜飲んでいます、オブラートに包んで、、、、
そのおかげか去年から今もずっと風邪をひきません。
それまでは一年に三回から四回は風邪をひいていました。
納豆菌のおかげかなと思っています。
★維新の謎 時機を得た死亡時期
明治維新に深くかかわったのは、明治天皇ではなく孝明天皇です。
その、 孝明天皇の死は日本史上極めて重要な事件であるにもかかわらず、日本の歴史家は
世界に比類なき学奴精神によって、この問題を避けてきました。
一国の天皇が不可解な死を遂げたというのに、明治維新から終戦まで八十年間もその死は
ベールに包まれたままでした。
明治維新に深くかかわった孝明天皇の研究が進まないのはとても不思議です。
その孝明天皇が不可解な死を遂げたのは、慶応二年十二月二十五日。
元皇族の竹田恒泰氏は、孝明天皇の死に疑問を投げかけています。
その竹田氏は言います。
「孝明天皇が真剣に守ろうとしたことは、幕府を倒すことではなく、調和ある日本を築くことだった。
歴史は天皇の望む方向とは、まったく別の展開になってしまった」
と孝明天皇の死を悼みました。
英国公使パークスの下で通訳官をしていたアーネスト・サトウは、慶応二年「英国策論」という
書物を大阪、京都で発行しています。
そこにはこんなことが書かれています。
「将軍が日本の君主だというのは偽りである。
将軍は大諸侯の一人となって、天皇をいただく諸大名の連合が幕府に代わって
日本の代表機関になるのがよい。」
サトウもまた倒幕論者のひとりでした。
従って孝明天皇をも否定したことになります。
そのサトウは一八六七年二月九日、アーガス号で横浜から兵庫へ到着し、兵庫湾に停泊中の
プリンセス・ロイヤル号の艦上で日本の貿易省と会い、天皇の崩御を聞かされます。
そしてそののち、「日本における外交官」をまとめその文中次のように書いています。
「彼らは私に帝の崩御に関するニュースを伝えた。
それは単に公表されたものにすぎなかった。
噂では帝の崩御された原因を痘瘡としていた。
しかし、数年後、その間の内幕によく通じている一日本人によって、私は帝が毒殺されたのだと
いうことを信じるようになった。
帝は所信をもって、外国人に対する如何なる譲歩にも真っ向から反対された。
そのため、幕府滅亡の計画が早められ、強いて宮廷を西方権力との直接関係に
巻き込もうとする人たちによって、帝は邪魔にならぬところに片づけられたのであった。
しかし、開国反対以外の何者でもない保守的な帝によって、おそらく内戦になるだろうと
いうことは予期されるはずて゜あった。
だからその貴人の死を毒殺に帰するということは、東洋の国々ではごく普通のことである。
前の将軍家茂の場合では、彼が一橋によって殺されたということが、かなり流布されていた。
帝に関して私は当時、かかる如何なる暗示も確かに聞かなかった。
しかし、帝が後継者として十五、六歳の少年睦仁親王を残して、政治の舞台から消えて
亡くなったことは、最も時機を得たものであるということを、否定することはできない。」
アーネスト・サトウはこのように記しています。
このサトウの文献が戦前、孝明天皇の暗殺を唯一示唆するものです。
明治憲法の歴史弾圧が、日本人には及んでも外国人の口まではふさぐことができなかった。
日本の歴史にとって非常に幸運だったといえます。
明治政府も外国人の口までは、ふさぐ力がなかったのです。
アーネスト・サトウの他にも韓国の志士、安重根も次のように発言しています。
明治四十二年十月二十六日伊藤博文を暗殺した安重根は、その斬奸状のなかで
伊藤博文の罪を十五カ条あげています。
旅順法務院法廷で
「日本は東洋のかく乱者なり。
伊藤公は前年閔妃を殺害したる首謀者なり。
また、侯爵は韓国の外臣なるにもかかわらず、わが皇室を欺き、先帝を廃位したり。
故に伊藤公は韓国に対し逆賊なるとともに、日本皇帝に対しても大逆賊なり。
彼は先帝、孝明天皇を」
ここで裁判長はあわてて安重根の発言を差し止めました。
そして裁判の公開を禁止してしまったのです。
この安重根の発言から、孝明天皇の暗殺のうわさが韓国にまで広がりました。
この裁判長はなぜ安重根の発言を途中で止めたんでしょう。
外国人ばかりではありません、日本人も決して愚かな人間ばかりではない。
佐々木克氏(戊辰戦争)
「孝明天皇は慶応二年十二月に死亡した。
天皇の死因については表面上、病死ということになっているが毒殺の疑いもあり
長い間、維新の謎とされてきた。
しかし、近年、当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ
光順の子孫である医師、伊良子光孝氏によって孝明天皇の死は、光順日記で見る限り
明らかに急性毒殺症状であると断定された。
やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏は何も言及していない。
しかし当時の政治状況を考えれば、自然と信任の姿は浮かび上がってくる。
洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策わめぐらしている岩倉具視にとっても
最も邪魔に思える。
目の前にふさがっている厚い壁は、京都守護職会津藩主松平容保を深く信任し、
佐幕的朝廷体性をあくまで維持しようとする、親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。
岩倉自身は洛北の岩倉村に住んでおり、行動が不自由で朝廷には近づけなかった。
しかし岩倉と固くラインを組み、民間にあって自由に行動し策動した大久保利通がいた。
孝明天皇の周辺は、第二、第三の岩倉や大久保の影がうごめいていた。
直接手を下さずとも、孝明天皇暗殺の黒幕がだれであったかはもはや明らかであろう。」
瀧川政次郎氏は雑誌「新潮」で次のように述べています。
「孝明天皇もまたわが皇室史上悲劇の主人公であらせられる。
慶応二年十二月二十五日の天皇の崩御をめぐって、疑惑は明治時代からかけられていた。
孝明天皇毒殺説は、わが少年時代から幾度となく京都の公家華族の人々から聞かされた
ことである。
宮中の女官の日記である「御湯どのノ上の日記」には天皇が疱瘡で亡くなられたことになっている。
天皇がこの病気であったことは事実であろうが疱瘡と暗殺の競合ということもあり得る。
事は宮中の奥深いところで起こったのであるから、的確なことは言えないが
当時の情勢からいって、孝明天皇の暗殺ということは実際にありうることである。」
一国の天皇が崩御したというのに、その死の真相もわからないままずっと
孝明天皇の問題は放置されてきました。
幕末よりはるか昔のことならまだしも、幕末のころの天皇の死の真相がわからないなんて
不思議なことだとずっと思っていました。
病死なら病死で、いつなんという病気で亡くなったのか、公表すればいいだけのこと。
病死ではなかったから病死だと公表できなかった。
暗殺なら暗殺で、いつだれに殺されたか公表すればいいだけのこと。
ただの暴漢に殺されたのではなかったから、暗殺とも公表できなかった、、、、
暗殺か病死かうやむやにしたままにしたのは、世間に公にできない類のものだったから。
アーネスト・サトウではないけれど、孝明天皇の死は時機を得たものでした。
勤王派にとって実に都合のいい時期に亡くなってくれたものです。
会津藩にとっては痛恨の極みでした。
孝明天皇の死は会津藩にとって後ろ盾を失くし、その後の転落につながります。