夢にも思わなかった戦争をしたい内閣の出現 | 気になるニュースチェックします。

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毎日の暑さに早く秋が来ないかと思っています。
日中は外に出ると暑いというより、痛いという暑さです。
そして雨が降ればあちこちで被害が出るし、、、、
異常気象が続く夏ですね。

原爆の日の6日、安部首相は広島で平和記念式典に参加しましたね。
そこで過ちを繰り返さないために、憲法九条の必要性を被爆者団体から
聞かされても、国民の命を守るためと力説し、広島の訴えを拒否しました。

戦後69年ずっと平和を守ってきた日本に、ここにきて「戦争をしたい」内閣が
出現するとは夢にも思いませんでした。

安部は、何かというと「国民の命を守るため」という。
いままでずっと国民の命を守ってきたではありませんか。
戦争に行かず、戦争をしないで戦後ずっと国民の命を守ってきた日本。

これ 以上に国民の命を守るってどういうこと?

あべの言葉はまやかしです。
二度と戦争をしないと誓ったから、世界のどこの国も日本を攻めてこない。
でもこれから米国といっしょになって、あちこちで戦争をし人を殺せば
あちこちの国から恨まれる、テロの標的にされるのは目にみえている。

安部のいう国民の命をどうやって守るの?
米国は世界の国にやたら介入して戦争を引き起こす張本人
だから米国はテロの標的にされてきた。

そんな米国とグルになって世界の人を殺すの?
広島の被爆者の声を安部はどう受け止めているのか。
安部内閣が出現したおかげで、こんなことを考える世の中になってしまった日本。

あの太平洋戦争では徐々に国民は戦争に協力していきました。
そういう世の中に政府は変えていったのです。
その恐ろしい過程をみてみましょう。


★国民の戦争協力
 
 昔、よく「共産党は恐ろしい」と教えられたものです。
 そういうのがずっと頭にあったのですが、今考えると反対じゃないかと
 思うようになりました。

 31年9月23日発行の「労働新聞」号外において共産党の外廓団体である
 日本労働組合全国協議会は、
 ○弾薬武器軍隊の輸送を拒否せよ。
 ○戦争反対の大衆的罷業大衆的示威を決行せよ。
 と呼びかけました。

 また柳条溝鉄道爆破は、軍事行動の口実にすぎず、この戦争の本質が
 恐慌の負担を勤労大衆に転嫁するための「強盗戦争」であるとしました。

 31年10月から、35年末までにかけておびただしい多数の刊行物が
 「反戦」の理由で禁止処分を受けています。
 
 無政府主義者、石川三四郎は個人雑誌「ディナミック」に満州事変と題する
 論説を載せました。
 「武力によってのみ支持せられる日本の外交は、かくてとにもかくにも
  成功したと言われるであろう。
  われらの子孫をして永く民族的苦患と恥辱とを褒めしむるために」

 「もしわが熱愛する日本になお少しく光輝ある発展を希望するならば
  我々はまず自ら平和の人道の正義の国民として、世界人類の前に
  立たなくてはならない」

戦争初期の数年間は、反戦思想の宣伝がある程度活発に行われていました。
共産主義者の戦争観はもっとも的確に帝国主義戦争の本質に迫るものでした。
また38年長崎のデパートの便所に
「帝国戦争を拒否せよ。
 我々は伊独人民のごとき、不幸に陥ることを拒め」
という落書きが発見されています。

また同年都城の歩兵第23連隊の裏町に
「強盗戦争を止めて、招集者を解除せよ。
 銃後は労働不足也。
 軍隊生活者曰く、戦争長期に及べば一家失業、
 横暴で矛盾した帝国主義を打倒」
というビラをまいた者があったりなどの事実は無数にありました。
(司法省刑事局、思想研究資料)

戦争に対する批判は軍隊内にも及んでいました。

石橋湛山は五一五事件直後
「我が国においては、外交に就いても、軍事に就いても重要なことと言えば
 ほとんどことごとく言論の自由が封ぜられている。
 為に世の中に何れ誤れる知識が散布し偏狭なる思想を養成し、社会を害しているか
 はかり難い。」
と叫びその後しだいに言論の自由が狭められていきました。

しかし表現の自由に対する弾圧は、日を追って強化されていきます。
矢内原忠雄は37年10月
「日本国民に向かって言う言葉がある。
 汝らは速に戦いを止めよ。
 今日は理想を失ったる日本の葬りの席であります。
 日本の理想を生かすため、ひとまずこの国を葬ってください」
という叫びをあげたのち、東京帝大の職を追われました。

言論界では弾圧に屈しただけでなく、自ら進んで大勢に順応する動きが
加速度的に進みました。
そして大勢は軍国主義支持の方向に傾斜していきました。

民政党出身の内務大臣安達謙蔵は挙国一致体制を唱えて若槻民政党内閣を
瓦解させました。
33年6月獄中の共産党幹部佐野 学、鍋山貞親は共産主義から
日本主義に移りました。

そして共産主義者として逮捕された人々に対し、警察、検事局は
巧妙な誘導を加えて共産主義から転向するように迫りました。
また物理的記心理的拷問の苦痛に耐えかねる状態に陥れることにより
転向をせまりました。
(中村義明、共産党某被告の転向記録、赤化青年教化読本、昭和14年刊)

またジャーナリズムは初期の批判的姿勢を失って、権力の指導に追随していきました。
昭和42年12月河上 肇は
「権力の命ずるままに寝返れる女郎のごとき学者ぞあわれ」
と詠みました。
(河上 肇、晩年の生活記録、昭和17年12月27日条)

今も権力の言うまま気ままに日本は動いてますからね。
哀れというか、情けないというか、女郎と変わらない。

文壇や論壇は大日本文学報告会、大日本言論報告会を組織しました。
そして多くの文筆人がこれに加入して戦争に協力しました。
美術界でも37年ころから、戦争美術展、聖戦美術展、大東亜戦争美術展などが
開催され一流画家の多数が戦争画を描きました。
(森口多里、美術80年史)
(毎日グラフ、太平洋戦争名画集1967年11月3日臨時増刊)

権力の虎の威を借りた低劣、狂気のような文章ばかりが氾濫していた
昭和10年代の日本。
言論界は聖戦、八絃一字、大東亜建設などを鼓吹し、新聞には無敵皇軍、大戦果のみが
報道されました。

そんな言葉ばかりを並べ立てられた国民は、やがて戦争に熱心に協力する気持ちに
なっていったのです。
ジャーナリズムも美術界も言論界もそろって戦争賛美を謳い上げたのだから、、、、

ところが現実に夫や息子を戦地に送り出し、永久に帰らぬことを知らされた者たちは
物資の困窮と戦況の悪化のなかで生活を破壊され、戦争を恨んだ人たちもいた。
昭和41年戦死した兵士の遺児で小学4年生だった梶川博司は
「お母さんは時々写真の前で泣きます」
とつづり方に書いた。
(お父さん、今井誉次郎、帰らぬ教え子)

また息子の応召後残された老父は
「修の野郎さえひっぱられなきゃこんなして人の世話にならなくたって
 なんとかして切りまわしていけるんだ。
 それをどうだ、お上のやつらはなんの断りなしにいきなり赤紙一枚で
 犬が猫みてえに、修をしょっぴいていきやがって。
 あとはこのざまだ。
 いくらよその国を占領したって、勝った勝ったといったって
 それで田んぼが一枚でも増えるわけじゃねぇ。」

また息子の餓死の報に接した母親が、これも天皇陛下のためと思って
気をしっかり持ってくださいとはげまされたとき
「天皇陛下だって、そんなごたくは聞きたくねぇ。
 自分が真っ先に戦場に出ていくがいい。
 そうすりゃ人の子が死ぬということがどんなことかよくわかる」
(渡辺 清、村の戦中日記)

戦況悪化により戦争を呪う気持ちはさらに広がっていきました。
当時18歳の江崎庸子はその日記にこうつづっています。
「その爆撃で死んでしまえばよかった。
 戦争さえなければ、私たちはこんなつらい目をしなくてよかった」
「なにもかもいや、生活に疲れてしまった」

大多数の国民は戦争に協力しました。
けれど戦争に反対の態度を堅持した人々もいました。
戦争のスローガンに酔って、始めは熱心に戦争を支持していた人々も
戦争の激化により国民生活の破壊に伴って、次第に怨嗟の声をあげる人々も
現われてきました。

戦争をやってよかったなんて言う人をいまだかって私は知りません。
戦争をやってよかったなんて言う人をいまだかつてみたことがありません。