今日はぞっとするというか、とんでもないというか、そんな嫌なお話しです。
戦争大好きな安部政権がなが~~~く続くかもしれないというお話しです。
今まで80年代以降、長く続いた政権は
在職期間1980日 歴代5位の小泉政権と
在職期間1806日 歴代6位の中曽根政権の二つだけです。
あとはみんな短期政権で終わっています。
その理由は米国に歓迎されなかったからです。
民主党になってから
野田政権482日
管政権 452日
鳩山政権266日でした。
日本なのに米国に歓迎されないと、長く首相を続けられないという不思議。
ここは米国じゃないのに変な国ですよね。
小泉は中国、ロシアとの関係を悪化させアメリカ一辺倒外交に専念しました。
中曽根は「日本はアメリカの浮沈空母」と発言しました。
アメリカに好かれたから首相を長く続けられたんですね。
アメリカ様様、おべっか使って首相をやらせてもらっていたんですね。
ところが自民党から民主党に政権が代わってから、みんな短期政権で終わりました。
野田はこれじゃいけないとアメリカにいくらか、すり寄ったので鳩山政権の倍は
長く続けられました、管も同じです。
安部首相が集団的自衛権行使容認を決めたことで、米国との関係が決定的に変わった。
ウォール・ストリート・ジャーナル7月2日配信
米国の防衛長官ヘーゲルは、安部の集団的自衛権行使容認について
歓迎の意を表しました。
「日本はより広範な軍事作戦に従事できるようになり、日米同盟は
さらに実効あるものになろう」
と評価しました。
日本はこれから広範な軍事作戦に従事していくんですね。
死人もますます増えることでしょう。
そしてさらにヘーゲルは、こんなことも言っています。
「地域や世界平和と安全保障の貢献を拡大しようとしている日本にとって
重要な一歩」
なんてことも語っています。
戦争が世界平和と安全保障の貢献になる?
アメリカはあちこちの国に出かけて行っては、戦争の火種をまき散らしてくる。
世界平和とか安全保障とか美辞麗句を並べ立てて、、、、
そのせいで世界の人がどれだけ死んだか、、、、
安部はそんなに長く首相でいたいんですね。
そのためにはアメリカに歓迎されないとダメ。
日本の有権者に無視されても、嫌われてもなにを言われても
首相ではいられない。
とにかくアメリカに好かれないと、、、、
だから独裁で国民無視国民不在の政治を突っ走っているのです。
だってとにかくアメリカにいい子になっていれば、首相でいられるんだから、、、
日本の有権者のいうことなんて聞くわけないじゃない。
だから安部はいい気になって、独裁を突っ走っているというわけ。
中国外務省は、国営新華社通信論評で
「日本は戦争の亡霊とたわむれている」
と非難しました。
国民無視の安部政権が長くなると
消費税増税
TPP
残業代〇
大企業優先するかわりに
中小企業の優遇措置を削る
庶民にとってはぜんぜんいいことない、辛い時代が続きます。
★血に染まる長江
日本軍の追撃を逃れて長江をうずめ尽くすように集まった何万という群衆は
長江の上流と下流から日本軍が殲滅作戦を展開してくるという
絶望的な状況に追い詰められた。
そしてあらゆる手段を使って長江を渡ろうとする群衆が、殲滅の標的にされる。
「軽装甲中隊午前10時ころ、下関に突進し江岸に蝟集し、あるいは江上を逃れる
敗敵を掃射して、無慮一万五千発の弾丸を撃ち尽くした」
佐々木到一の私記にはこう記してあります。
日本軍の捕虜になるよりは、長江の中で一緒に死のうと8人が板に乗り
長江に乗り出した中国軍将校の陳頥鼎は、九死に一生を得、インタビューに
こう答えています。
「夕方5時ころだった。
そのころ日本軍の軍艦が長江にやってきて、巡視しながら長江の敗残兵を
掃射しはじめた。
さまざまな器材に乗り、あるいはつかまって長江の流れにただよう中国軍将兵が
日本軍の機関銃の餌食となった。
また日本軍艦にぶつけられ漂流道具もろともひっくり返され、溺死させられた人も
多かった。
戦友たちの無数の死体がたえず近くを流れていく。
長江の水は血で染まり、凄惨な光景は見るに耐えなかった。
軍艦上の日本兵たちが長江を漂流する無数の戦友たちを殺戮しては拍手し
喜ぶ姿もみえた。
この時の怒りは生涯忘れることができない。」
(南京防衛軍の崩壊から虐殺まで)
海軍軍医の泰山弘道大佐は「上海戦従軍日誌」に次のように書いています。
「下関に追い詰められ、武器を捨てて身一つとなり、いかだに乗りて逃げんとする
敵を第11戦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万人に達せり」
(南京戦史資料集)
下関の中山埠頭から対岸の浦口埠頭まで1・5キロ以上
汽船で渡るにも10分近くかかる。
小舟、いかだなどでは対岸にたどりつくのは困難。
日本陸海軍の大殺戮と溺死、凍死を免れた軍民はかろうじて南京下流にある
八卦洲という大きな中洲にたどりつくことができた。
陳頥鼎も葦のいかだに乗った上等看護長に救いあげられ中洲に流れつくことができた。
そこには九死に一生を得た軍民が何千と避難していた。
ところが日本の軍艦に発見されて、中洲から脱出できないようにされてしまう。
陳頥鼎はすぐに流木を集めて筏をつくり、夜明けの濃霧を利用して対岸に無事脱出。
ところが包囲された何千の軍民は、岸辺に集められ集団殺戮された。
そして死体は長江に流された。
陳頥鼎氏は
「こんな残虐な事件は世界史上にもあまり例がない」
と語っています。
長江の上流には江心洲という小舟や筏でわたることのできる中洲がある。
そこに敗残兵が多数いるという情報を得て、中国兵を降伏させた。
捕虜となった中国兵は2350人。
(南京戦史資料集)
その2350人の捕虜をどのように処刑したのか公刊された資料には
記されていない。
しかし第10軍柳川平助から残敵を撃滅すべしという命令が出され
第10軍の方針が残敵殲滅、つまり皆殺し。
14日から17日にかけて中那方面軍全体が展開した捕虜大殺戮をみれば
その推測はつく。