とうとう今日集団的自衛権閣議決定します。
昨夜は国会前が3万3000人以上の人が、憲法解釈に反対して
抗議する人たちで埋め尽くされました。
歩道を埋め尽くしものすごい数の人たちが、反対の声をあげました。
安部首相は国会の議決も、国民投票もしないで政権だけの判断で
解釈改憲をするというんですね。
公明党は自称平和の党ではなくなります。
というか、もうなくなっています。
99年に自民党と連立を組み、自衛隊の活動を拡大する法律を
次々と成立させました。
イラク特惜法、武力攻撃事態法など、、、、
公明党は64年の結党時、絶対平和主義を掲げてきました。
あれから50年、集団的自衛権を認めたことで
平和の党の看板に傷がつくことになり、国民の視線は激しいものになりました。
自衛隊も今日で、発足から60年目を迎えます。
60年目の今日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定します。
自衛隊の活動はこれまでも、拡大の一途をたどってきています。
これから海外でますます武力行使が可能になる、活動をしていくのでしょう。
自衛隊の海外派遣は、91年の湾岸戦争を機に変質し、米国の強い要望で
派遣を何度も繰り返してきました。
これからもますます米国の要望で、日本の自衛隊は海外に進出していくのでしょう。
集団的自衛権行使の実態は、他国の戦争に参加することです。
アフガニスタン、イラク戦争では、同盟国として参加した英国などは
多数の死者を出しています。
また、後方支援だった30国の兵士も700人が死亡しました。
日本とは関係ない他国の戦争で、自衛隊員が危険にさらされます。
韓国では自国の兵隊が、もう何千人も死んでいるといいます。
★日本軍の大包囲網
中支那方面軍の第10軍と上海派遣軍が南京への進撃を開始したころ
国民政府の委員長蒋介石は、南京で国防会議を開きます。
そして重慶への遷都を決定し南京防衛作戦の方針を決定しました。
3か月にわたった上海防衛戦に蒋介石は、約70万の兵力を投入しました。
その結果戦死者も25万人前後という膨大な数になっています。
この中国軍がこうむった損害の大きさから、首都南京を防衛しきれないことは
明らかでした。
だから首都を重慶に移し長期戦に備えたのです。
しかし抵抗を名目的にとどめて、あとは自発的に撤退するという作戦と
南京を一定の期間死守しようとする作戦のどちらかを採るかで対立した。
前者は軍事委員会参謀総長の何応欽ら多くの幕僚の意見でした。
これに対して後者をゆずらなかったのが蒋介石でした。
その理由として、南京は中国の首都であるから世界の注目を浴びている。
南京には孫文の陵墓があり、敵の手に汚させてはならない。
などでした。
国防会議の最後の晩、蒋介石は多くの幕僚の反対を押し切って
南京固守作戦を決定します。
ところが南京防衛軍司令官の人選にいたり、高級幕僚のなかには
それに応ずる者がいませんでした。
重苦しい沈黙を破って名乗り出たのが唐生智だった。
彼は過去2回、反蒋介石戦争に参加したことがあり、国民政府内では
非主流派に属しずっと冷や飯を食わされてきた人物です。
政府、軍内に確固とした勢力基盤もありません。
その彼が国防会議で誰も蒋介石の固守作戦を支持しなかったのをみて
南京防衛軍司令長官に名乗り出たのです。
その時唐生智は47歳、夏にはアメーバ赤痢を患った病み上がりの体でした。
そのこともあって年よりはずっと老けてみえたという。
唐生智と中支那方面軍司令官、松井岩根とは司令官として二人は
共通性をもっています。
①航空機、軍艦、戦車を投入した近代兵器と大部隊による大都市の攻防戦を
指揮する経験と実力にまったく欠けていた。
②そのため唐生智は、日本軍の大規模な南京攻略戦を予想していなかった。
松井は中国の抗戦力を軽視して、南京の占領と国民政府の降伏を
安易に考えていた。
③唐生智は非主流派の幕僚として閑職にあり、松井は現役をしりぞいて
長らく予備役でいたため、二人とも野心と功名心は人一倍強かった。
④以上の理由からふたりとも、師団長、師長クラスの高級指揮官たちから
信頼、尊敬を得ておらず、司令長官に必要な実力、権威を備えていなかった。
⑤二人とも病弱な体であり、過度の緊張の持続と不規則な睡眠、生活を
強いられる戦場の司令長官には不適格だった。
唐生智は病気への懸念から司令長官部を自分の官邸に置いたため
全軍の指揮に大きな支障をきたしました。
松井は野戦司令部で病臥することが多くありました。
南京攻略戦のたけなわには南京から約220Kの蘇州の司令部に病臥しています。
蒋介石は、当初約7万人の南京防衛軍の配備を計画しましたが
南京攻略に向かう日本軍の予想外の早さと、総勢20万近くまで
増強されていく中支那方面軍の状況に動揺し危機感を募らせていきます。
けれど蒋介石には、南京防衛を1~2か月もちこたえれば国際情勢が変化して
中国の危機は回避されるという漠然とした期待感がありました。
そして南京戦区に軍隊を急増派し南京外囲陣地を固めようとしました。
急いで水増的に兵隊補充が行われたため、農村から大量に徴用された青年兵が
新兵として送られてきました。
しかし中国には、整備された兵役制度がなかったため、すぐに戦闘に使える
兵力はなかった。
徴用されてきた成年男子は武器の使用法も知らない戦争の素人でした。
新兵たちは武器の扱い方や射撃訓練などをうけたが、兵隊として自覚的組織的に
作戦行動をすることもできず、指揮官がいなくなって部隊の指揮系統が崩れれば
あとは烏合の衆になりかねない。
南京事件ではこうした新兵の大部分が犠牲になりました。
12月4~5日第16師団、第9師団が句容県へ
第114師団は凓水県へ
第6師団と国崎支隊は高淳県へ突入しました。
この段階で南京防衛軍の総数は約15万人に達しました。
これを総勢20万近くの日本軍が波状進軍の形で包囲し、空からは空襲部隊が
出撃して激しい爆撃を加え、長江からは遡江部隊が南京に向かって
両岸の要塞、砲台を攻撃しながら進撃をはじめた。
陸、空、海からの徹底した包囲殲滅作戦が開始されたのです。
南京戦区大包囲網のなかには、南京防衛軍のほか、近郊区には100万以上の
住民と難民。
南京城区には40~50万の市民難民がまだ居住しています。