今日、命をかけて演奏してきました。ピアノではなく、和太鼓でです。命かけと言っても綱渡りをしながら叩いたとか、火の輪くぐりをしながら叩いたとかいう意味ではありません(笑)
私はニューヨークにいながら和太鼓を習っています。習い始めて1年と3ヶ月くらいになります。日本では中学生の頃に出身地のお祭りでお囃子を叩いていたので、和太鼓は割と馴染みのある楽器です。本当は、8年ほど前博士論文の研究真っ只中、フラメンコやらスペイン音楽やらについて研究していながら、無性に和太鼓が習いたくなり、よっぽど習おうかと思っていました。でも妊娠中だったことと、始めたらのめり込んで博士論文そっちのけで和太鼓に集中してしまうと思ったので、その時はやらずにグッと堪えました。フラメンコについて調べながら、フラメンコも実際に習いながら気づいてしまったのです。フラメンコをやっている人たちは人生をかけて、命をかけてやっている、と。フラメンコはもともとジプシーの音楽ですが、迫害、差別、貧困とそれはそれは暗い過去が元になって出来上がったアートです。まさに人々が命がけで作り上げたアートなのです。私にはそれほどの情熱がない。人生をかけてフラメンコを学びたいと思うだけの気持ちがない。それなのに中途半端に習ってしまっては申し訳ない、と感じました。そして、日本人の血が騒いだというのでしょうか。その頃から、私は日本人である、というアイデンティティーが強く芽生えてきたのです。日本人である以上、日本の音楽、芸術の暗い過去は受け入れる受け入れないの問題ではなく、もう私の一部、とまで思えてきたのです。博士論文をやっとのことで終わらせて、子供も大きくなってきた。そろそろ和太鼓を初めてみようか、と思ったのが一昨年の秋でした。8年前にコンタクトを取りたいと思っていた先生の門戸を叩き、私はまたしても大人になってから新しい楽器を始めました。
よく、太鼓とピアノはどう違うとか、どっちが難しいのか、と聞かれます。一言で言うと、全く違う感覚で奏でています。打楽器は当たり前ですがピッチがありません(ティンパニはありますが)ので、たたく場所が数ミリ、数センチずれても音色に多少の違いは出たとしても、明らかに違う音(間違えている音)としては鳴りません。反対に、ピアノでは数ミリ、数センチ指の着地点がずれるだけでとんでもない間違えに聞こえたりします。和太鼓では曲の覚え方も全く違います。音を声に出して(「どんどこ」などなど)覚えます。音符はありません。でも、打楽器はリズムを司っているから、リズムとピッチを司るピアノに比べて簡単かと言うと決してそうではありません。リズムを究極に複雑にすると、ピアノで可能な複雑さとは全くレベルが違うのです。
今日は和太鼓グループでパフォーマンスしてきました。演奏する前から、今日は私は命をかけて叩こう、何があっても自信を持って叩こう、と決めていました。明日死んでも悔いのないつもりで。全力で叩くので、頭に酸素がいかなくなり?脳みそに考える余裕がなくなり、数の数え間違えなどよく起こるのですが、今日は間違えても堂々と叩こう、と思っていました。そして他のメンバーにも宣言。笑 私がリードする曲でしたので、数の数え間違えをしても私についてきてね、と。実際、数え間違えはありませんでしたが、他のメンバーのキュー出しで私が勘違いし、一部狂いが生じた箇所がありました。が、そんなことも気にせず精一杯叩き、他のメンバーとアイコンタクトを取りながら調整して、なんとか戻るべきところに戻ることができました。
結局、これなのかな、と思いました。ステージ上でどんなことをやるにしても、それが予定していたことであっても予定外のことであっても、自信を持って演奏することが大事なのだな、と。中途半端に、申し訳ない気持ちで、恥ずかしがって演奏してしまうとその居心地の悪さがもろにお客さんに伝わってしまうと思うのです。だったら、いくら間違いでも、堂々と音を出す。そうすると不思議と正当な音に聞こえてくるものです。お客さんがマジックにかかってくれます。笑
命がけでの演奏ができた後はものすごい達成感と幸福感を実感しました。叩いている間は楽しいとか嬉しいとかを考える時間が全くありませんでしたが、魂で叩いている、そんな感覚がしました。私はこれをするために生きているのだな、と感じました。ピアノではそういう感覚(命がけ)で演奏することはありませんが、でもピアノもとても大切。こちらも別の意味で人生かけてます。ピアノでも夢中になって演奏することができたらどんなにいいだろう。和太鼓は私にその世界を少しずつ教えてくれているのかもしれません。